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60 巻き込まれてゆくのぞみ

 のぞみは特別に正義感が強かったわけではないが、少しでも人の為になればと思って、この屈強な体格の男に寄り添って展示室の廊下を歩くことにした。

 仏教の仏が慈悲を象徴し、布施行を勧めるものならば、仏前でこうして人助けをしてみることも悪くはなかった。

 己の為ばかり思って動いていても、救われることのない魂は、かえって人の為に動いて、その罪業を滅却するというものだろう。

 のぞみには、古よりそういう精神的な潮流が続いていて、自分の潜在意識に流れ込んでいるように思えた。


「なあ、君、名前はなんていうんだ」

「のぞみです」

「じゃあ、そう呼ぼう。少し具合の悪いこともあるだろうが、口裏を合わせるんだ」

「ええ。根来さん」

「違う。根来さんじゃない。お父さんと呼んでくれ」

 一体どうしてこんな仏教美術の展示会に殺人犯と刑事が紛れ込んでいるのか、のぞみには見当がつかなかった。


 殺人犯は、先ほどから訝しそうに根来の方をちらちらと見ている。それは警戒心に満ち溢れているが、あれは警察官だ、という明らかな目つきではない。仏教美術の並べられたひどく落ち着いた雰囲気の中で彼にはどこか安心し切っている印象があった。ただ、根来がそわそわと動くと、それに合わせて彼も僅かに動いて、その様子を横目で伺っているのだった。

「このまま尾行が失敗に終わるかどうかという瀬戸際だ。悪いが、あいつに聞こえるように出鱈目の会話をしてくれないか。家族にも思えるように、だな……」

「わかりました」


「のぞみ……」

 根来は一枚の仏画を前にして、のぞみに大きな声で語りかけてきた。

「なんでしょう。お父さん……」

「敬語を使うな。戦前の家庭じゃないんだから……」

 と根来は低い声で、のぞみに注意した。

「うん……」

「これはどういう絵か分かるか?」

「描かれているのは普賢菩薩(ふげんぼさつ)でしょう。白象に乗っているんだから……」

「うん。そうか。そうだよな……」

 根来は不自然な咳払いをする。仏教の話は苦手なのだろう。


 殺人犯らしき不審な男は、そのぎこちない会話に耳をそばだてているようだった。もしや警察官なのか?という露骨な問いかけをされているようで、ふたりはすっかり冷や汗をかいていた。


「ああ、その普賢菩薩ってやつだ。つまり、これはそういう絵なんだ。せっかく展示会に来たんだから、こういう作品はちゃんと見ておかなくちゃいけない」

「そうだね」

「せっかくの親子水入らずなんだから……」

「えっ、うん……」


 自然な会話とも思えない内容だった。

「このあと、どうする? 食事をしてゆくか」

「そうだね」

「食べたいものあるか」

「わたしはなんでもいいよ」

「ああ、そうか……」

 殺人犯らしき男は、そのぎこちない会話を聞いているうち、いよいよ不審に思えてきたらしい。それでも確信が持たずにいるのか、ふたりに背を向けると、さっさと廊下を歩いて、どこかに消えてしまった。

「気付かれたかな……」

「会話がおかしいからですよ」

「おかしいことはなかったさ。とにかくこのまま尾行を続けるのは危険だ。美術館の入り口にふたりの刑事が張っているから、そのふたりに任せよう……」

「そうなんですね」

「突然巻き込んで申し訳なかった。もしものことがあったら、この名刺に書いてある番号に電話してくれ」

 そう言うと根来は一枚の名刺をのぞみに手渡すと、礼を言って、殺人犯が歩いて行った方へと廊下を歩いていった。


(変な人もいたもんだ。刑事って言っていたけど……)

 その名刺に記されていることが本当かどうかのぞみには、よく分からなかった。のぞみは、今の出来事に微塵もリアリティーを感じられず、珍妙な喜劇に巻き込まれていたような気持ちになった。


 のぞみはふらふらとした足取りで、再び展示室に戻ろうとした。もう一度、根来が歩いて行った方をちらりと見る。すると、先ほど殺人犯と思しき男性が立っていたところに白い紙切れらしきものが落ちているのが目に入って、足を止めた。

(おや……)

 のぞみはその紙切れの近くへとゆっくり歩いてゆく。そしてそっとそれを手に取って、ちらりと紙を見つめると、周囲に隠すようにポケットの中にしまった。

(なにか重要なものかもしれない。さっきの刑事さんに渡すべきかな……)

 しかし、もしもこれが犯人が落としたものでなかったら、ここであの刑事に連絡するのはかえって迷惑になるかもしれない、とのぞみには思えた。そのため、ポケットの中に紙切れをしまったものの、すぐに連絡しようという気持ちはついに湧いてこなかった。

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