59 群馬県警の根来警部
「わたし、今までずっと曼荼羅がわからなかったんですけど……」
「わかったのか。これが……」
隣の男が気味悪そうにのぞみを見る。
「いえ、別にわかったってわけじゃないんですけど……」
のぞみは喉元まで込み上げてきている感動に頭が一杯になっているので、隣のその猛虎のような男の反応に構わず語り続ける。
「つまり、慈悲ってひとつの真理だと思うんですよね。それは空の心のこと、つまり無我のナチュラルな心で、波風の立たない湖面に自然と浮かび上がる月の影のように、そこには慈悲が生まれてくる。そういう慈悲深いものを潜在的に持っているということですけど、世の中、妄念って、結局色々あるじゃないですか。つまり湧き立つ無数の感情、そこから生まれてくる嫉妬心とか、不安とか、怒りとか、さまざまな心の作用が波風のように生じている。社会にはそうした利己心が渦巻いていて実際醜いわけで、人間の慈悲なんてものはその妄念に常日頃、覆い隠されてしまっている。つまり、それって真理は一つでも、妄念は無数に存在しているってことを意味しているじゃないですか」
「………」
隣の男はなんと答えてよいかわからなくなって、のぞみを困惑した目つきで見ている。
「だからそうしたさまざまな妄念に対応するようにさまざまな智慧があって、病に対応したお薬のようになっている。だからその智慧の数がこの仏さま、神さまの数だと思うんですよ。でも、それでも究極の真理は一つで、空であること、慈悲であることであって、すべてのものはそのナチュラルな心の状態に包括されてしまう。つまりそれがこの真ん中の大日如来とまわりの神仏の関係性なんじゃないかと思って……」
隣の男はその意味不明な言葉の洪水に深く頷くと、周囲を気にしている様子で、のぞみに一歩歩み寄った。
「お嬢さん。申し訳ないんだが、実は俺はこういうもんなんだ……」
そう言いながら男は、黒革の手帳のようなものを取り出す。縦に開かれたそこには男の顔写真と「根来拾三」という名前が記入されている。
「………」
「こういうわけなんだ」
「読めない……」
「ああ、ネゴロって読むんだ。その上に書いてあるのが警部。下に書いてあるのがPOLICE。つまり俺は群馬県警の根来警部ってわけだ……」
「警察の人……」
「そう。そうなんだよ。まあ、話を聞いてくれ。あそこにいるのが俺が追っている殺人犯だ……」
「えっ」
「さっき尾行していたら、迂闊に近づき過ぎて、すっかり怪しまれてしまったんだ。だから少しの間、親子のふりをしてくれないか」
この訳の分からない話を鵜呑みにしてよいものか、のぞみは困惑した。
殺人犯と呼ばれている男は、黒い短髪の後頭部をこちらに向け、灰色のジャンパーに両手を突っ込んで、隣の展示室の仏画を眺めている。
「ほんの少しの間でいい」
「わ、わかりました……」
のぞみは、こんな時に人の役に立てる人間になった方がいいんじゃないか、という気持ちになった。それは目の前の曼荼羅にぎっしりと美しい御仏が並び、揃いも揃ってこちらを見つめているプレッシャーでもあった。このことで、自分の未来がまったく変わってしまうことなどこの時、のぞみは知るよしもなかったのである。




