57 歴史を感じる時
平安時代の阿弥陀如来坐像が、展示室の奥でライトアップされている。のぞみはそこに人だかりができているのを遠巻きに見る。これはつまり、それが重要な文化財だと知って人が集まっているのだとのぞみは思った。
この阿弥陀如来坐像は、いまや本来の仏教の宗教性から離れたところに鎮座しており、代わりに歴史や美術といった真新しい視点によって、人々の関心ひいては尊敬を集めているようだった。ここには線香の香りも漂わなければ、僧侶の読経が聞こえることもない。強すぎる照明が当てられたその素肌にはハイライトがみなぎっている。阿弥陀如来の肉体の金箔が剥がれて、黒くなっているあたりを、初老の男性が腕組みをしながら観察している。
のぞみは過去を感じる。過去というもうどこにもないはずのものを現在の阿弥陀如来から想起する。そういうところからのぞみはより精神的になる。すると目に見えなかった歴史が、過去が、重圧をともなって身に迫ってくるように感じた。平安時代からの無数の意識の持続、一千年あまりの霊魂の総体のようなものが、ぐんっと胸にのしかかったような感じだった。これが歴史なのだとのぞみは思う。
(それでもわたしはこの阿弥陀如来がなにかがわからない……)
自分が何者なのかわからないのと同じように……。
(白緑山寺の阿弥陀如来よりも二、三百年前の仏像なんだ。この阿弥陀さまは……)
とのぞみは高札のようなキャプションを読みがら思った。そう考えると平安時代とはずいぶん長い時代だったものだなぁと思う。今から二百年前といえば、江戸時代だろう。白緑山寺の阿弥陀如来とこの阿弥陀如来とで、それほど姿が変わったようには、のぞみの目に映らなかった。
(しかし、まあ、そんなことを考えるためにわたしはここに来たわけではない……)
一躯の仏像の中に、一千年の歴史が折り畳まれているとのぞみは感じた。
歴史というのは時間だ。人は過去、現在、未来の流れに身を委ねているようで、その実態は常に現在のみを生き続けているのだ。目の前の仏像も過去のもののように思えるが、他ならぬ現在、存在するものである。だからのぞみがこうして金箔の剥げた黒い地肌に過去を感じているのはナンセンスであるけれど、それより他に人間が過去を体験する手立てはない。だからふと立ち止まった時には、変わり果てた黒色の素肌を前にして過去のことを考える。そうやって人の生きるということを俯瞰する。まったく仏像のうちには時間の流れが折り畳まれている。
(わたしは過去を見ようとしているのか。これから現在を生き、未来を目指さなければならないこの時に……)
あらためてのぞみは自分の美術鑑賞は骨董趣味なのではないかと感じる。
古きものを愛する。これは人間の故郷を愛する気持ちに似ている。それでも、のぞみは自分の抱えている悩みに対する答えがその古きものの内側に果たしてあるのか、そこに疑問を抱いている。
「素晴らしい。仏像だ……」
とぼそりと初老の紳士が語った時、のぞみは自分とこの紳士の心はまったく異なるもので、同じ仏像を前にしても、まったく感じ方が異なってしまっているのだと感じた。
「お嬢さんもそう思うでしょう?」
と紳士が急にのぞみの方を見て言ったので、のぞみは心臓をどきりとさせながら、
「ええ……」
と小さく呟いて、その場から離れた。




