56 展示室の吉祥天
のぞみは煌々とライトアップされた仏足石を拝みながら、黒い壁に囲まれた展示室を歩いていた。仏足石は奇妙に大きな岩という印象で、のぞみにはそれが何を意味しているのか判然としなかった。
(わからない。それがわかっているということだ……)
芸術とは、創造者と鑑賞者の直接的な関係ともいえるし、間接的な関係ともいえる。
芸術体験というのは、芸術品という物体を介する場合もあるし、人間の行動がそれにとって代わる場合もあるからだ。
のぞみはジャズ喫茶のマスターが楓に語ったことを聞いてはいないが、たしかに芸術とは言語領域と非言語領域の合間を常に彷徨っているものだった。
実際、この時、のぞみの脳に生じている数々の現象は、言葉にならないものばかりだった。
それでも芸術を理解するということを強いられると、どうしても言語に置き換え、なんらかの概念、ひいては世俗の価値観に結びつけなくてはならなかった。
仏足石を素通りしたのぞみの目の前に吉祥天の仏像が現れた。吉祥天は麗しい女性の仏像で、実際の人間よりもわずかに小ぶりに作られているようだった。天女らしい衣装の彩色は剥げているところもあれば、残っているところもあった。
(これはつまり吉祥天だ……)
そうやって単純に理解するより他にのぞみにはなす術がない。のぞみが受けた印象は鮮明である共に曖昧でもあり、混沌としているので、そのままでは捉えようもない。それをどうにか頭で理解しようとする。ところが吉祥天という言葉、概念を用いて、脳内で整理し直した途端、それはすっかり味気ないものに変色してしまう。
かつてが円悠が教えてくれたことで、禅に「言語道断」という言葉があるということだった。それは一切の真理は言葉から離れているというものだ。ある人が月とはなんであるか周囲の人に伝えようとして、月を指差した。周囲の人はその人差し指を見ているばかりである。それでは月そのものを表すことにはならない。この人差し指こそが言葉である。そういう喩えをするのだった。
のぞみはそれを感性と理性の話だと思った。感性をいくら理性で言い表そうとしても、感性そのものを表現したことにはならない。つまりのぞみは芸術の体感とは、感性によるものだと思い、直観によるものだと思った。そして人生とは本来、そうした言語化できないもので溢れているのだと思った。そこに人生の核となる部分があるとのぞみは信じていた。それでものぞみは理解するということ、他人に伝えるということを強いられるのなら、やはり言語、概念ひいては論理を用いなければどうすることもできないと思った。
(別にわたしは原始人になりたいと言っているわけではないけれど……)
人類が忘却しているものを思い出す。それはつまり、原始的な精神のゆらめきだ。未来に向かって歩むことではない。高度な文明が実際に生み出したのは、言語による価値の置き換え、精神の単純化、生活の物質化、システマティックで中身が空っぽの社会構造。そんなものなのではないか。そうのぞみは思いながら展示室を歩いてゆく。
飛鳥時代の仏像が並んでいる。それは金銅仏で、ひょろっと細長かったり、異様に不恰好だったりする。のぞみはショーケースの前を歩いてゆく。それらを眺めながら、なにか自分への啓示がそこにあるのではないかと信じて……。