55 ジャズ喫茶の楓
その日、楓はジャズ喫茶の中にいた。のぞみが美術館で仏教美術を拝んでいるまさにその時、楓はアルバイト先であるジャズ喫茶で、ハンドドリップのコーヒーを淹れているところだった。
ジャズ喫茶というのは、日曜日になると一般客で混み合う。
半数を越えるのは、六十代の常連客だった。大体ハンチングをかぶってお洒落にしているのがジャズ喫茶の常連客である。椅子に座って、伏し目がちに文庫本を読んでいる人もあれば、腕組みをして眠っているかのように目を瞑っている人もいる。音楽に合わせて、リズミカルに体を揺すって指を踊らせている人もいる。
それに混じって、若いカップルも二組テーブル席に座っている。
楓は本日、ブレンドコーヒーを何杯淹れたことだろうと思った。コーヒーを淹れるということはウエイトレスにとって命懸けの行為である。全身の神経を研ぎ澄ませて一杯のコーヒーを淹れる。しかし意中の彼の顔が脳裏に浮かんで、その度にケトルの注ぎ口からは無神経な太いお湯が注ぎ出て、その度、コーヒーの粉はだぶだぶと波打った。
(このコーヒーが今のわたしの精神状態なんだ……!)
と楓は心の中で叫んだ。
「つまりそういうことだ……」
と後ろに立っているジャズ喫茶のマスターが言った。
「そうなんですか!」
楓は自分の心が見透かされたと思って振り返りざまに叫んだ。
努めて無言を強いられているジャズ喫茶の常連客は、楓の素っ頓狂な声が響いてきて、顔を上げてカウンターの中を覗き込んだ。
「ジャズというのは今、君が感じた違和感そのものだ……」
(違う。そんな話じゃない……)
楓は首を横に振ると、コーヒードリッパーからお湯が溢れ出したことに驚いて、銀色のケトルを置いて、台拭きを手に取った。
「芸術というのはいつも曖昧なのさ。常に言語領域と非言語領域の境界をさまよっている。ただ、音色だけが本当の説得力を持つ……」
(なにを言おうとしている。このマスターは……)
楓は腹立たしく思って、コーヒーを淹れ直す準備を始める。
そもそも楓は芸術などどうでもよかった。今、楓は恋愛に夢中なのだ。のぞみじゃあるまいし、自分は芸術のなんたるかを知ろうとなんか一切していない、と楓は思っている。楓にとって店内に流れているジャズは単純に心地よいもの以上のなにものでもなかった。それをああだこうだと語るのは、マスターが芸術家を気取っているせいだと楓は思った。楓は難しい理屈で、ジャズを芸術と捉えるのを心良く思わなかった。ジャズは気持ちの良いもの。それで十分だ。
楓は芸術とはなにか、なんて問いを立てたことはない。
楓は現在、恋をしているのだ。そして恋愛至上主義者などと自分のことを大それた呼称で名乗っているほどで、彼女は自分の恋愛感情を代弁し、盛り上げてくれる音楽を求めていた。
そういう視点に立ってみれば、楓の耳にはすべての演奏が恋愛ソングに聴こえてしまう。MJQの名演「たそがれのベニス」の演奏が過度にロマンティックに聴こえてしまって、楓をはらはらさせていた。そう聴こえてしまうのが人間の自然な感情である。
(まったく音楽はわたしの心を幸福にも不幸にもする……)
ジャズピアニストの巨匠、セロニアス・モンクのピアノソロ名盤「ソロ・オン・ヴォーグ」の一曲「リフレクションズ」を聴きながら、夕暮れの見える店内で、楓が妙に寂しくなったことがあったのも、楓の個人的な聴き方に違いない。
同じジャズピアニストでも、レッド・ガーランドの快活なサウンド、星屑が煌めいたり、宝石が砕け散ったり、果ては踊り出したくなるほど楽しくノリのよいピアノを聴いている時には、この手の心情にならなかったのも事実なので、楓はあの哀愁は、セロニアス・モンクのピアノの魔力だと信じている。
こういう聴き方がよいのか、楓はよく分からない。つまるところ、ピアノの音がピーンと鳴った時に、それに自分や社会の問題を絡めて感動したりするのは、鑑賞者の勝手な行為とも思える。
(しかし、まあ、わたしはあのピアノが好きだ……)
どんなに理屈をこねまわしても、ピアノの間が生み出すあの哀愁が、楓は耐えられないと思う。
今、楓は今、カウンターの中でコーヒーを淹れながら、ジャズのテナー・サックスの巨人、ソニー・ロリンズの不屈の名盤「ヴィレッジヴァンガードの夜」の音色を聴いているのだった。
この時、喫茶店の店内は、雰囲気を出すためにいつもよりも照明が暗くなっていた。
カウンターの中だけ、白っぽい照明がついている。
(このくらいがジャズを聴くにはちょうどいいでしょ!)
そういう理屈なのである。
こうしてカウンターに立っていても、地を這うようなベースの低音とうねりを生むようなドラムの金属音が異なるリズムで忍び入ってきていた。夜のジャズクラブを彷彿とするどんよりと気怠い雰囲気である。空白を突くように飛び出すテナーサックスの鈍い音色が、飛ばし気味の勢いで吹き散らされ、掴みどころのないのが、楓にはゾワッとするほど魅力的だった。その音色がスピーカーから飛び出す度に、室内の空気をどこか重たくしていた。それは窓から差し込む昼間の光には似合っておらず、わずかに白っぽく変色しているようにすら楓には思えた。
(つまるところ、ジャズはこういう雰囲気だ)
そう楓が思うのは、楓にとってジャズがまさに掴みどころがないものだからだった。
「いや、まったくその通りだ」
「えっ」
楓はマスターの声に驚いて振り返る。ケトルからお湯が勢いよく飛び出し、ドリッパーに当たって湯気が立った。
「つまるところ、バイタルかどうかが寛容だと言いたいのだろう?」
(違う……)
「ところで、昨日の夜、君の友達に映画館で会ったよ」
「友達?」
「一緒に住んでいる」
「ああ、のぞみ?」
楓は台拭きを握りながら、聞き返した。
「そうそう。ローマの休日を見ていたらしい」
「のぞみは今朝、東京の美術館に出かけたよ」
「そうか。東京のね」
マスターは意味ありげに頷いて、次にかけるレコードを探しにカウンターから出て行った。




