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54 上野の美術館

 のぞみは美術館の入り口の右側にある受付で学生証を見せて、料金を支払い、特別展のチケットを受け取った。

 のぞみはチケットを大切そうに摘んで受付を離れたが、財布を鞄にしまう動作とに混乱が生じて、たちまち無様に折れ曲がってしまった。そのことを残念に思いながらも、そんなことに執着(しゅうじゃく)してはならないと自分を戒めて、のぞみは係員にチケットを半券に破いてもらうと、どんどん美術館の敷地の奥へと入っていった。

(わたしは今、興奮している……)


 のぞみは、噴水のある四角い池を前にして、三つ並んだ巨大な建物を眺めていた。青空にそれらは異様に輝いているように見えた。正面の和洋折衷の建造物は、日本美術を扱っているところだった。のぞみは以前にもここに訪れたことが数度あった。のぞみはそこで当時、あまり興味の湧かなかった美術品のいくつかを拝んで、容易に理解できないことにひどく悩んだ思い出があった。

 そもそも、のぞみは西洋美術が好きだった。印象派の絵画や、その後のさまざまな芸術運動。それらはエキセントリックなものであったが、のぞみの内面に渦巻く葛藤を代弁してくれるような気がして、大変に魅力的だった。日本美術はそれらと比べて、工芸的で、職人仕事のもっとも優秀な作品がショーケースの中に陳列されているだけのような気がしていた。それがのぞみにとっては不満だったことを覚えている。


(それが今、わたしは日本美術を見に来ている……)

 のぞみはそれが妙に感慨深く感じられた。


 のぞみは正面の建物の横に人の列が出来ていることを発見した。その列は、建物の後ろ側へと続いている。特別展の列であることはあきらかだった。

(けっこう待ちそうだな……)

 のぞみは少し面食らった。

 のぞみはふらふらと不審な足取りで、小洒落なスーツ姿の老人の後ろに並んだ。その隣には、その奥さんと思しき女性が立っている。

「これほどの仏教美術の名作が一堂に会することはあまりなくてねぇ……」

 とあまり興味を持っていなさそうな奥さんに老人は愉快そうに話しかける。


「しかし仏教美術というものは実に難しい」

「なにがよ……」

「いや、わからんかな。つまり、仏教美術というものの難しさは、それが芸術であるという以前に宗教の信仰物であるというところだね」

「それがどうして難しいのよ……」

 と夫婦は適度な温度差を保ちながら、のぞみに聞こえる声の大きさで会話をしている。


「つまりお坊さんに、これは素晴らしい美術品ですな、などと言うと、うちの御本尊になんてことを罰当たりな、と怒り出すのだね。つまり仏さんを作品と捉えること自体をお坊さんは快く思わないのだね」

「いいじゃないの。どっちだって……」

「いや、それはよくないよ。だってお寺の御本尊なんだもの。だから、こっちは素晴らしい名作で、こっちは駄作ですね、なんて批評家ぶって語れば、どんな仏さんでも仏であるからにはその尊さに優劣はない、とお坊さんに怒られるわけよ」

「それじゃ道端のお地蔵さんでいいじゃないの。なにもわたしたちだってここまで来ることなかったのよ」

「いや、だからね、それが信心というものだよ。道端のお地蔵さんと定朝の阿弥陀如来坐像にはありがたさにおいては優劣はない、これは仏さんに関する限りその通りだと思うのだけどね。仏像や仏画というのは、製作した仏師さんの心はさまざまならば、それを拝んだ人々の心もさまざまだと思うわけで、そういう積もり積もった人々の情念のようなものは実にさまざまなわけだね」

「いいわよ、そんな話は……」

 奥さんはそう吐き捨てるように言うと、目の前の人の列を見て、はあとため息をついた。


 のぞみは気まずくなりながらも老人の話を聞いていた。知らぬ間に、自分の後ろに列が出来ていることに気付いてぎょっとした。のぞみの後ろに立っている、まるで仏教美術と関わりの無さそうなカップルもあれやこれや話を始めていた。

「つまり史上最強の仏は、不動明王だってことだよ。俺に言わせればね。あくまでもこれは俺の意見」

「ふーん。まあ、たしかに弱いのよりは強いのがいいよね」

「でも、金剛力士っていんじゃん? 金剛力士って、金剛がつまりダイヤモンドなのよ。つまり和訳するとダイヤモンドレスラーなんだよ。それで、あの厳つい見た目じゃん。好きよね。やっぱ」

 そう言ってキャップをかぶった男性は嬉しそうにへへっと笑う。

「わかる。男はやっぱり筋肉だよね」

 そう言って金髪ギャルは、キャップをかぶった男性を腕をちょっとつねった。そしてふたりで乾いたような笑い声を上げた。


 のぞみは前後の人々の会話に挟まれて、どんどん気まずくなっていった。仏教思想と芸術という荘厳なコラボレーションに期待して、栃木県から単身で乗り込んできた自分は実のところ、この場に一番相応しくないのではないかという一抹の不安が次第に大きくなってきていた。

(わたし、浮いてないか……?)

 そうしていると次の一群が、特別展の会場に案内されたらしく、列は一気に動き始めた。


(おっ、動くじゃん)

 のぞみはまた気持ちが高揚してきた。そしてそのまま、のぞみは人の列に導かれて、建物の中へと歩いてゆくことになり、思ったよりも早く建物に入れたことに喜びを感じると共に、ひどい緊張も入り混じって、訳がわからなくなってきた。

(うおおおお!)

 のぞみは心の中で叫んだ。

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