52 上野駅の芸術論
のぞみはひとりで、上野駅のホームに降りると階段を足早に下り、地下階の廊下の人混みの中を歩いていった。
のぞみは人の流れを見ていると感覚が擦り切れてしまいそうになる。
(人、人、人だ……)
この人混みの中に仏教美術はひとつもないのだった。仏教美術が普遍的なテーマを持つものなら、どうしてそんなことが起こり得るのだろうか。人間の日常生活から、完全に離れてしまった古美術、それが仏教美術の現在の姿だろうか、と思うとのぞみは寂しくなった。
仏教美術は今では古びてしまったのだろうか。生活の中から仏教は必要のないものとなってしまったのだろうか。仏教美術を愛するこの心は、単なる骨董趣味なのだろうか。のぞみは自分に繰り返し問いかける。
のぞみは歩きながら、問題を仏教から、芸術そのものへとシフトさせていった。
(芸術こそが人生なら、人生には芸術が満ちていないとおかしい。でも、実際の生活には、芸術があまりにも少ないように感じる……)
のぞみがそう思うのも無理はなかった。いわゆる純粋芸術が、大衆の生活とは一線を画するものであると信じるが故にそう思えるのだった。しかし瞼を開いてよく見てみれば、駅の天井の照明も、廊下を歩く人々の羽織っているコートも、店先に並んだ色とりどりの商品の数々も、すべて芸術といえば言えるのだった。
(ただ、これらはなにも表現していない。人間の内側に巣食っているものを何一つ表現していないんだ。あるいは、エゴイスティックな人間社会の現実をありのままに表現しようともしていない。人生とはなにかを示唆するようなメッセージ性もそこには込められていない。ただ、虚無的な日常生活の掃き溜めなんだ……)
のぞみはそう思う。ただ、のぞみは芸術と民俗とが完全に分離しているように自分が信じているのは、芸術家を自負する自分の独りよがりな視点に過ぎないことも同時に感じていた。
(そうだ。わたしは芸術に生まれ、芸術に生き、芸術に死ぬことを自分の宿命と信じている。だから芸術を、これらの世俗的なものとは次元の異なるものと信じてやまないんだ。でも、それは人間は所詮、この日常生活の中でのみ生きられる存在であることを完全に忘却している視点でもある。いかなる高次元の精神性も、複雑な哲学も、直観の原始的なゆらめきも、疲れた体に甘く囁くような一杯の珈琲の香りには勝てない時がある。なぜならば、わたしたちはこの日常生活の中で生き、この日常生活の中で死ぬからだ……)
のぞみの思考は、上野駅の人混みの中で、勢いよく回転していた。
のぞみは上野駅の改札口から飛び出すと、照明のために白々と明るくなって外へと続くこのホールには、精神的なものなど何もなく、ただ物質が転がっているだけだ、とも思った。
すると今度は、精神的なものってなんだろう、という問いが浮かんで、訳が分からなくなりながら、のぞみは外に飛び出したのだった。
目の前にはガード下の横断歩道が広がっていて、人の波はアメヤ横丁へと続いていた。右手にはビルがずらりと立ち並び、その先には上野恩賜公園があるようだった。
(外に出た!)
それまでむつかしいことをずっと考えていたのぞみは、道路を煌かせている日光の美しさにやられて、今までのことなどすっかりどうでも良くなって、東京に到着したことを素直に喜んだ。
(さあ、どこへ行こう。そして、わたしは一体何を探しているんだろう……?)
自分は何を探しに東京まで新幹線で来たのか、のぞみは途端に分からなくなった。




