51 のぞみの東京見物
日曜日の早朝、森永のぞみは最寄りの白緑山駅に徒歩でゆき、そこからローカル線の電車に乗った。
のぞみが乗った車両には、他に親子連れが一組いるだけだった。のぞみは二人用の長椅子の窓際の席に座って、のんびりと電車旅を楽しむつもりであった。のぞみが座ったのとほぼ同時に、電車は発車し、ビルの並んだ街並みを抜けると窓の外は山並みの景色となった。
のぞみは今まさに、美術の勉強のために東京へと向かっているのだった。月曜日の講義を受けなければ、東京で一晩、宿泊することもできる。のぞみはすでに東京のビジネスホテルに予約を取っていた。
いかに仏教の真理を会得しても、それを表現する技術や感性が持っていなければ何の意味もない、とのぞみは考えていた。というのも、のぞみは芸術家である。表現することが人生そのものなのである。そのためには絶えず、美術品に接している必要がある。それに、のぞみが夢中になっている仏教もまた、美術という表現を通して、なにか重要なメッセージをこちらに伝えてきているはずである。それは、難解な経典から得られる内容とは異なるものかもしれないが、仏教美術をみて直感したものなら、自分にとってそれは真実だと、のぞみは思っていた。
のぞみは、東京のとある美術館で、仏教美術の特別展があるという情報を以前から入手していたのであった。
(わたしはやっぱり、美術が向いている)
のぞみは、凍えるように椅子に小さくなると、車内の様子をそっと眺めた。色とりどりの広告が壁に貼り付けられている。その隣の黒ずんだ白い壁が、古い車両であることを窺わせる。紺色の椅子のクッションも色が滲んで見える。時々、子供の笑い声が遠くの椅子から響いてくる。
(久しぶりの東京だ……)
のぞみは東京見物が楽しみである。そして、その間になにか仏教の重要な発見をしなければならない、とストイックに自分の気持ちを盛り上げていた。
(美術から仏教の何がわかるのか、それはわからない。でも、わたしが芸術家である以上、そういう形で仏教と接するのが一番いいんだ……)
のぞみは、窓の外を眺めた。すると小さな山が次々と迫ってくるようで、森の中に飛び込んだのかと思うと、電車はトンネルに入った。トンネルの中は地獄の底のようである。そういう連想がのぞみに起こった。でもそれには何の根拠もなかった。ただ、暗闇から起こる不安感がのぞみにそんな幻想を見せたのだろう。窓ガラスには車内が映っているだけである。それでも、のぞみの目には荒涼とした地底世界のようなものが映っていた。
(見えるもの、すべてが幻想だ。でも、わたしたちは幻想の中でしか生きられないんだ……)
トンネルを抜けると、山並みの緑が眩しく、車内に飛び込んでくるようだった。のぞみは再び、ほっとして気持ちよくなり、微笑みを浮かべた。
(今、ここには、わたしと緑色の景色しかない……)
そう直感する。こんな風にしてわたしと景色が関係で結ばれるのだ、とのぞみは思った。しかしそれは決して、永遠の関係ではないだろう。刹那の関係性だ。のぞみはそう考える。この電車のようにわたしの心はいつもレールの上を走り続けている。そして、窓から見える、ひとつひとつの景色に心が奪われるけれど、わたしが感動している間に、その景色はもう遠くにいってしまっているのだ。
(芸術はかえってその刹那に、命を吹き込もうとしているとしているのかな……)
のぞみはだんだんわけがわからなくなってくる。わたしと景色、景色とわたし……。
のぞみははっとする。車内には、やはり色とりどりの広告が壁に貼られていて、子供の声が響いていた。それはまるで先ほどまで無くなっていたかのようだった。
のぞみはあたりを見回してから、ふうとため息をついた。
(まあ、いいってことさ!)




