4 胡麻博士の娘だということ
楓は茶碗を取り出すと、そこに冷えた白飯をよそり、市販のお茶漬けのもとを振りかけて、梅干しをひとつのせ、熱い湯を注いで、箸で流し込むようにして、手早く夕食を済ませた。
それから楓は脱衣所に入り、シャツを脱ぐと、続いて淡い桃色のブラジャーを外し、スカートも何もかも、一糸もまとわぬ姿で、寒々とした浴室に入り、シャワーを浴びた後に、浴槽の熱い湯に浸かった。
楓は熱がりな上にのぼせやすいので、あまり長時間は入っていられないのだが、湯に浸かり、包み込むような湯気の白さをぼんやりと見上げながら昼間の青年のことを思い浮かべていると、時間が経つのを忘れてしまった。
(名前はなんていうんだろう……)
楓は入浴を済ませてパジャマに着替えると、布団の上に横になったが、この時も楓の頭の中はあの青年のことで完全に支配されていた。
図書館では色々な期待をしていたにも関わらず、受付の男性に本を返しただけで、青年の唯一の手がかりさえ失ってしまうという残念な結果に終わった。
(失敗したな……)
本は自分で持っておいて、学内かジャズ喫茶であの青年を見かけた時に、自分の手で返せばよかった。そうすれば会話のきっかけにもなったはずだ。そういう機会をすべて失った気がして、ひどく悲しくなった。
今の時点で楓が間違いないと信じる事実は、青年が楓と同じ白緑山大学の学生であること、そして神仏習合の霊山の本を借りていたことから、そのようなことに興味を持っている人物、おそらく歴史の研究をしている学生に違いないということであった。
「神仏習合の霊山……」
楓は日本の歴史を学んでいる学生であるが、宗教史には疎く、この話題にはついていけない気がした。しかしそう言っていられないのが恋心である。これこそが青年の居場所をつきとめる手がかりなのだと思うと俄然、興味がわいてくる。
(そういえば……)
この付近の山中に白緑山寺という寺がある。その寺は全国的に有名な神仏習合の霊場なのだとか。楓が通っている白緑山大学のゆかりの寺でもあるという。もしかしたらあの青年が神仏習合の霊場に関する文庫本を手にしていたのは、白緑山寺となにか関係があるのかもしれない。
「白緑山寺……」
のぞみなら何か知っているかな、と楓は思った。隣を見るとのぞみが布団の上でうつ伏せになりながら、一冊の文庫本を読んでいた。彼女は寝返りを打った。めくれ上がった純白のTシャツからはエロティックな秘密を感じさせる美しい臍の窪みが露わになっていて、それを優しく包むようなわずかな脂肪がさも柔らかそうに自然な光を放っていて、それはまるで湖に溶けてゆく月の光のようにどこか眠たげであった。
彼女が読んでいる本のタイトルを見ると、それはアガサ・クリスティーの「ABC殺人事件」だった。
楓はその小説を読んだことはなかったが、タイトルだけは聞いたことがあった。
のぞみはミステリー小説が好きなのだ。この前ものぞみは片手でポテトチップスをつまみながらコナン・ドイルの著作である「シャーロック・ホームズシリーズ」を熱心に読んでいた。楓がこの類いの小説を読むことは滅多にない。
「のぞみ」
楓は、いつ話しかけようか悩んでいたが、のぞみが猫のように欠伸したとき、小説にあまり集中していないことを感じ取ってこれを好機と話しかけた。
「ん?」
のぞみは澄んだ夜の海のような瞳でこちらを見つめている。
「白緑山寺ってお寺、行ったことある?」
「白緑山寺」
のぞみは小説をぽいと放り出すと、ちょっと上を見て、
「そりゃあ、うちの大学と歴史的に関係のあるところでもあるし、ここから一番近い観光地だから、何回か行ったことあるよ」
と言った。
「そうなんだ」
「楓は行ったことないの?」
史学科なのに、とのぞみはわずかに驚いている目つきで楓をまじまじと眺めている。
楓は史学科の生徒につきものの、歴史の常識を知らないと他者に思われたときに感じる過剰な羞恥心に苦しみながら、
「あ、いや、前から行こう行こうとは思っていたんだけどね」
と楓は誤魔化すように言った。
芸術家志望ののぞみの目には、それはいかにも自己欺瞞で滑稽なものに映ったらしく、ふふっと笑った。
「じゃあ、今度の休みにふたりでいこうよ。駅前からバスに乗ってすぐだよ」
とのぞみは言った。
「そうだね」
楓は別にお寺を観光したいという気持ちがあったわけではなく、青年が一体何に興味を持っているのかを知りたくて尋ねただけなのだが、確かにこの期にのぞみと白緑山寺を観光してもよいと思った。
楓が白緑山寺を観光していなかった理由の一つには、自分の父親の存在があった。
楓の父親は、胡麻博士と言って、東京の天正院大学で仏教民俗学の研究をしている。その父親のことを楓は決して嫌ってはいなかったが、なんとなく仏教がらみのことというと抵抗を感じる。
親元を離れてから、両親のありがたみを感じられるようになったのは事実だが、楓は胡麻博士の娘であることを常に周囲に隠していたし、史学科であることもあって周囲に父親のことでちやほやされたり、特別扱いされることを楓は意識的に避けていた。
史学科に入って、他の学友と交流を重ねるうち、自分の父親が本当はすごい人物だったのだと知ることになり、ずいぶん見直したし、最近では誇りにもなってきているところなのだが、それでも奇人変人の親を持つと苦労するものである。
入学した頃、父親に「白緑山寺にはもう行ったかね。楓」としつこく電話で尋ねられて、なんとなく言われて行くのは嫌だなと思っているうちに二年が経ってしまった。
わざわざ山の中などに入っていかなくても、このあたりはビルが建ち並び、商業が発展していて、地方の都会のようであるから、楓は何不自由なく学生生活を送ることができた。
(だけど忘れてはいけないのは……)
のぞみと白緑山寺に行くのはいかにも楽しそうだ、しかしそれ以上に今の楓にとって重要なのはあの青年と再会することだった。
(また会えるといいな)
楓はどうしてあの青年にこんなに惹かれているのか自分でも説明がつけられず、不思議な気持ちになった。