45 胡麻博士の逃亡
祐介は、倒れている胡麻博士をどうしたらよいか考えながら、達磨大師の掛け軸を床の間の隅に置く。胡麻博士は背中を痛めたらしく、うんうんと唸り声を上げている。
「この痛みも、あるようでないものとは凡夫にはひっくり返っても思えない。まったく困った。困った……」
胡麻博士をとりあえず、助け起こして、畳の上に仰向けに寝かせる。
「羽黒君。食べきれんものは包んでもらいなさい。今は誰も欲していなくとも、いつかその食べ残しを欲している人に会えるかもしれん……」
と食べ残しをありがたいお供えもののように胡麻博士は言った。
「今はそんなこと気にしなくてもよいでしょう。楽にしてください」
「もう十分、楽にしとる」
胡麻博士は仰向けのまま、窓の外に浮かぶ月を眺めている。
「月が綺麗だの……。羽黒君」
「いや……」
祐介はなんとなく、その言葉に背筋がぞっとした。夏目漱石が「アイ・ラブ・ユー」を「月が綺麗ですね」と訳したとかなんとかいう話を連想して薄気味悪くなったのだった。
「不吉です」
「なにがだね」
胡麻博士は意味が分からないらしく、不思議そうな顔で祐介を見る。
「月が美しいのは間違いないことだぞ。羽黒君。わしは仏教論をこねくりまわして、別に月が美しいことが間違っていると言っているわけではない。現実に月はこんなにも美しいじゃないかね」
「まあ、その話は一旦、隅においておきまして、誰か呼んできましょうか?」
祐介は胡麻博士が倒れている状況に、痺れをきらした。
「大丈夫だ。わしの話を聞きたまえ。あの月は、さまざまな因縁によって生じた夢や幻や泡や影のごときものだというのだ。これはしかし、物質的な循環の話だけではないぞ。五感や言葉や自我といった精神的なものの作用も含めて、ありとあらゆるものを包括するような因果の関係性の存在論なのだ……」
「その話はわかりました。ところで、この達磨様の掛け軸ですが、破れてしまったようですが……」
達磨大師の掛け軸には破れめが生じていた。胡麻博士が先程、掴んで倒れたせいだろう。
「なんじゃて! それはまずい。まずいぞ。わしは補修する業者も知っておるから結果的にはどうにでもなるが、旅館の人にこのことを告げる気まずさに耐えられん。申し訳ないが、羽黒君、君がやったことにして君から話してくれんかね?」
「嫌ですよ。なんで、僕がやったことになっているんですか……」
祐介は呆れて言った。
「なんとかその掛け軸をわしの見えないところに隠してくれ。ああ、楽しいはずの研究旅行がこれですっかりぶち壊しじゃ。どうにかせんと心が乱れてしょうがないわい」
「先程まであんなに威勢よく仏教論を語っていたのに……」
祐介はどういうことを考えてよいか分からなかった。
「なに、君はわしを悟りきった禅僧のように思っておったのか。わしだって心を乱すわい。だってわしはただの仏教民俗学者なのだから……」
そう言って、胡麻博士はようやく上半身を起き上げた。
「気まずい……。ああ、なんといって声をかけたらよいのだ。すみません。床の間の掛け軸を破いてしまいました、とロビーに行って、あの松浦という気難しそうな主人に言うのかね……」
「そうです」
祐介はやれやれと思って、なんとなくこの場にいるのも居心地が悪いので立ち上がった。
「どこへ行くのかね。まさかひとりでどこかに行こうとしているのかね……」
胡麻博士は赤ら顔がすっかり青ざめている。
「仕方ありません。僕がご主人と話をつけてきます」
「そうしてくれるとありがたい」
胡麻博士はそう言うと、なにか言葉をかけなくてはと思ったのか、
「仏の加護がありますように……」
と祐介に言った。
(罰当たりな……)
祐介はそう思いながら部屋を出て行った。
ところが胡麻博士は、祐介がいなくなった隙に、部屋を飛び出した。そして祐介がロビーのカウンターの中で主人と話をしている隙に、鹿のような体勢で下駄箱に近づき、自分の靴を取ると、カウンターの影を通って、廊下の先の裏口から、温泉街へと飛び出したのだが、この時、吹き付ける風は異様に冷たかった。
胡麻博士がそんなことになっているとは、祐介はまったく知らなかった。




