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43 ご馳走と空の思想

 祐介が、腹を空かせている胡麻博士を憐れなものと思って見つめていると、失礼しますの一言が廊下から聞こえて、引き戸が開いて、旅館の若い従業員たちが颯爽と入ってきて、伊万里焼きの綺麗な大皿に盛られた刺身やら寄せ鍋やら山菜の煮物やらをちゃぶ台の上に次々と並べてゆく。祐介は突然、このような贅沢な料理を目の前にして、なんと述べたらよいか分からずに目前の胡麻博士を見上げると、胡麻博士は瞳を輝かせて、料理を見つめているのだった。

(事件のあった後なのになんて呑気なんだろう)


「ありがとう。ありがとう……。遅くなってしまったから何も用意してもらえんかと思っておった……」

 胡麻博士はそう言うと今にも畳に手をついて、土下座でもしそうな勢いである。

「先生。やめてください。そんな……」

 と先程の鍵を投げつけてきた娘が言って、山菜の天ぷらの乗った皿を音を立ててちゃぶ台に置いた。


「でも、こんなに食べられるでしょうか」

 と祐介が心配して言うと、胡麻博士ははっはっはと大声で笑い出す。

「食べてみせよう。そう、食べてみせようじゃないかね。わしは最近、夕飯はざる蕎麦一枚と決めておるが、今宵ばかりはこのようなご馳走を腹一杯いただこうではないか!」

 昨日の夜は到着が遅かったからはじめから料理をもらわなかったのである。


 祐介が冷たく脂ののった刺身を箸でひとつまみし、新鮮な香りのするわさびを乗せ、きりりとした濃口の醤油に浸して、一口で頬張る。とても美味な味わいが舌の上で躍ったかと思うとたちまち溶けてゆくかのようだった。

「美味しいですね」

 山の中なのにどうしてこんな美味な刺身があるのかよくわからない。


「鍋を食べるとよいぞ。羽黒君。若返ってくるようじゃないか」

 胡麻博士は豆腐が好きなのか、寄せ鍋から豆腐をすくいあげて、小皿によそる。そしてふうふう音を立ててながら熱い豆腐を口にするのだった。

「これを味わう味覚というものは、仏教では舌識(ぜつしき)というのだ……」

 また仏教の法話が始まるのか、と思って祐介は少し憂鬱な気持ちになった。


「人間の五感は、すなわち目識、耳識、鼻識、舌識、身識の五つの心で現される」

「それはすなわち知覚ですね」


「さよう。これらは世にいう五感だが、これに加えて、言葉をつかさどる意識(いしき)という心と自我をつかさどる末那識(まなしき)という心がある」

「マナシキ……。つまりそのマナシキというものを滅却して無我になろうというのでしょう?」

「察しがいいようだが、これらのものはすべて本来、(くう)だと知るが良い」

「クー……。クーってなんですか」

 白緑山寺でも同じことを言っていたな、と祐介は首を傾げる。


(くう)とは、この世のありとあらゆるものは、因や縁といったさまざま原因のめぐり合わせによって仮に生じたものにすぎない、という仏教の真理のことだ。そうしたものは、そのものを構成する原因、つまり条件を失うとたちまち崩壊してしまう。ゆえにすべてのものはいつかは消え去る運命にある。春が来て桜の花が咲いたとしても季節が変わると散ってしまうようにだね。すべてのものは無常ということだ」

 祐介はここで人生ではじめて空の思想というものに出会った。


「そうであるから、金剛経(こんごうきょう)にいうように、有為法(ういほう)は夢や幻や泡や影のようなものなのだ。有為というのは、いろは歌の有為(うい)の奥山というやつだ。因や縁が寄り集まることで仮に生じたにすぎない無常なこの世のことさ」

 金剛経(こんごうきょう)というのは、金剛般若経こんごうはんにゃきょうのことで、特に禅で重んじられている経典であるが、祐介はそんなことは知らない。口の中でコンゴーキョーと呟いた。


 祐介はなんと言ったらよく分からなくなって、鍋から白菜と豚肉をすくって小皿に盛る。

「すべてのものがそのようなものであっても、この白菜の味わいは永遠ですね」

 と祐介は呑気に言いながら、白菜を食べる。じゅわっと新鮮な汁が口に広がる。

「まことに美味です」


「それは君の心が生じさせたのだ……」

 と胡麻博士はいつの間に頼んだのやら、日本酒をお猪口に注ぎながら言う。

「これは僕の心とは関係なく存在している一つの白菜です」

 と祐介は反論する。

「しかし君は今、腹が減っているからこそこの料理を美味しいと感じる。しかし腹にものが溜まればそれはもう美味いものではなくなる。それはつまり、君の腹具合でこの食べものがまったく異なるものになるということだね。これは君の味わうといった感覚も、その白菜の味も(くう)だということだ」

 そんな話を遅刻した客にわざわざ料理を拵えてきた従業員の前で話して、顰蹙(ひんしゅく)を買わないものかと祐介は思った。


「おっしゃることはわかります。つまりこの世に絶対的なものはないとおっしゃるのでしょう。心のありようですべてのものはまるで別なものになってしまうと。しかし美味しいものと美味しくないものは現にこうして目の前に存在しているでしょう。たとえば、この伊万里焼きの大皿に盛られた刺身よりもそのあたりの農地に生えている雑草の方が美味しいということはありませんよね。つまり、そのものの持っている性質をまったく度外視しするわけにはいかず、主観のありようのみですべてのものをすっかり変化させられるわけではないと思うのですよね」

 と祐介はとりあえず、放っておくわけにもいかないので反論を試みる。


「それは確かにそうだ。しかし、そうであってもやはりその刺身の本質は(くう)であり、美味しい刺身という存在を生み出しているのは自分の心なのだ。

 考えてみたまえ。刺身よりも雑草が美味しいということがないのは、それはまず第一に君が人間だからじゃ。たとえばヤギの気持ちになっても刺身の方が美味いと言えるかということじゃ。それに人間の場合に限ってみても、刺身をまったく食べる習慣のない民族からしてみれば、刺身はまったくそこいらの雑草と同じようなものじゃ。それはすなわち、君が人間であること、刺身を食べるという習慣性、君の空腹などの条件が偶然合わさったことによって、はじめて刺身が「美味しい食べもの」という存在として君の前に現前するというわけだから、「美味しいもの」は、決してその存在の絶対的なあり方ではない。やはりこの場合においても、さまざまな条件がほどかれてしまうとたちまち「美味しいもの」というものは現前しなくなるのだ。とすれば、本来の境地においては、美味しいものも美味しくないものもこの世にはまったく存在していないということだ」


「なるほど。おっしゃることはわかります。それはつまり心のあり方によって現前の存在が変わるということですね。しかし、おでんにわさびを塗ってもからしの味はしないし、椎茸を食べても山芋の味はしないように、存在はその存在固有のあり方をしているわけで、心のありように左右されたとしても、存在自体がすっかり他のものに変わってしまうわけではないと思うのですが……」

「さよう。その通りだ。わさびはわさびである。からしはからしである。その場合、たとえば、わさびをわさびと知り、からしをからしと知るのが正しい心のありようじゃ。ところが、わさびというものは人間と関わる前からわさびとして存在しているのではなく、人間の五感や自我意識そして言葉や概念といった心の作用によってはじめてわさびと呼ばれるに至っておるのが実際のところだ。わさびもやはり、このような、さまざまな条件が刹那的に合わさったことによって仮に存在しているにすぎないものなのだ。そういうわさびのあり方はやはり、実のところ、夢のようなもので幻のようなもので泡のようなもので影のようなものなのだ。しかし、そういう幻の如きものをわさびと認識しているのが他ならぬ自分の心なのだ」


「なるほど。おっしゃることはわかります。そうした絶対的ではないもののあり方は分かりました。それでそこの天ぷらを食べてもよいでしょうか……」

「かまわぬ。はやく食べんと冷めてしまうぞ」

 胡麻博士はその後、咳払いをした。

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