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42 マトゥラー旅館

 羽黒祐介と胡麻博士のふたりはその夜、警察官の運転するパトカーで、白緑山温泉街へと戻ってきた。白緑山寺から山道を下ると温泉街は、十分程度で到着してしまう距離にある。

 パトカーに乗っていると、曲がりくねった山道に沿って軒を並べている旅館のうちで一際、古めかしい外見の、今にも屋根瓦の重さに潰れてしまいそうな旅館が、暗闇の中で眩くライトアップされているのだった。建物の右側に汚らしい看板が出ていて、そこには「松浦旅館」と書かれている。ここは山の中なのにまるで海辺の旅館のような名前である。おそらく旅館の主人が松浦さんというのだろう。その旅館のことを胡麻博士は面白がって「マトゥラー旅館」と呼んでいた。マトゥラーというのはガンダーラと並んで仏像発祥の地だが、その呼び方をされる度に、旅館の主人は嫌な顔をしていた。理由は不明である。

 ふたりは金曜日からここに滞在していた。パトカーで到着するとさすがに周囲に目立つというもので、向かい側から歩いてきた観光客らしきカップルが興味津々たる目つきでその様子を眺めている。


 ふたりはパトカーから降りた。警察官も一緒に降りてくる。

「ありがとうございます。ここで大丈夫です」

 胡麻博士はそう言うとふふっと微笑んで、黒革の財布を取り出し、パトカーを運転していた警察官の手にそっと紙幣を押しつける。

「これは大切に取っておきなさい」

「こ、これは、いけません。本官は決してそんなつもりで……!」

「菅原道真の肖像のある五円札だ。古いものを大切にすると福きたるというもの。小さく折りたたんで、財布の中にしまっておくとよい」

「はあ」

 警察官は困惑しながらその紙幣を受け取ると、ぼんやりとそれを見つめていた。


「羽黒君。行こうか」

 胡麻博士はそう言うと冷たい風を避けるように襟に首を隠して、祐介と共に歩き出し、旅館の引き戸を開けた。旅館といっても、庶民的な民宿のような印象もある。赤いカーペットの床が広々としたロビーの正面にカウンターがあり、その隣のショーウィンドウには骨董品が所狭しと並べられている。その中には民族工芸の日本人形もあれば、備前焼の焼け爛れたような壺もある。ふたりは土間で靴を脱いでスリッパに履き替えて床に上がる。すると、旅館の主人の娘が廊下の先から全力で走ってきた。

「お戻りですか!」

 そして娘は、カウンターの奥の棚から黄色いプラスチックの長方形の札がついた鍵を取り出して、ふたりに軽やかに投げつける。すると、たちまち踵を返して、また忙しそうに廊下の先へと走ってゆくのだった。


「忙しそうだの」

 胡麻博士は感心したように頷く。

「土曜日の夜ですからね。明日は日曜日だし、宿泊客が多いのでしょう」

 と祐介は欠伸をしながらそう言う。

「今日は警察の事情聴取で疲れたから、軽く酒でも飲んで早めに寝てしまおう。明日も仕事が大忙しだからの」

 と胡麻博士が(うぐいす)張りというよりは(からす)張りと呼びたくなる騒がしい階段を登りながら言うと、祐介は控えめな口調で、

「明日はどこへゆく予定ですか」

 と尋ねた。

「もう退院したはずの滝沢教授に今すぐにでも会いたいのだが、明日は日曜日だから大学にはおらんだろう。なかなか会えんのだ。そうだな。仕事はやめにして、娘のアパートにでも行ってみるか」

「親子水入らずと言うわけですか……」

 その場にお邪魔するわけにもいかないな、と祐介は思った。


 ふたりは電灯をつけて、昨日からさほど様子の変わらない八畳間の部屋に入った。建物は古くても畳は新しくなっている。ふたりはスリッパを脱いで、畳を踏みしめると、ちゃぶ台の両側にあぐらをかく。窓の外は不気味なほどの暗闇である。窓の手前には皺の寄ったソファーが二つ並んでいる。今では当たり前になった薄型テレビが床の間の横に置かれている。床の間には達磨大師(だるまだいし)の墨絵の掛け軸がかかっている。

「こんな時刻になってしまったが、わしらに飯はあるのだろうか……」

 と胡麻博士は疲れているらしき声で言った。声は弱々しく宙に消えてしまった。祐介は胡麻博士が一気に老けてしまったような気がした。

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