40 観音菩薩像の謎
「しかし、わからんことが一点ある。それはなにかというと、この白緑山は、古より阿弥陀仏の信仰がとりわけ盛んなところで、この山そのものが阿弥陀の極楽浄土とすら捉えられておるわけで、なにを致すにしても阿弥陀信仰がまず第一に想起されるようなところなのだ。それなのになぜ二度に渡って、わざわざ観音菩薩に供する形で殺人が行われたのか、ということじゃ」
胡麻博士の疑問は、仏教に詳しくない藤沢刑事からするとちんぷんかんぷんである。
「それが不思議なことなのですか……」
「だってそうじゃないかね。なぜ犯人はあの観音菩薩像に固執するのかね。観音堂は、前回の事件後にあの場所に新設されたわけだから、もしあの観音菩薩像に固執していないのなら、他の場所で殺人を行えばよかったのだ。それをしないで、二度と渡り、わざわざあの観音菩薩の前で殺人を行ったからには、犯人があの観音菩薩像に固執しているとしか思えんのだ」
それは藤沢にもよく分かる話だった。犯人にとって観音菩薩像は一体何を意味しているのだろうか。
「いえ、それはわかります。実はこれはまだ公開されていない事実なのですが、先生のご意見を伺いたいから特別にお話ししましょう」
「ふむ」
「実を言いますと、遺体は、死後にあの観音堂に運ばれていたのです」
「なんだって……!」
「正確にお話ししますと、犯人は殺害後、遺体を引きずり、あの観音堂に運び入れたものと考えられるのです」
「奇怪な!」
胡麻博士は唸り声を上げる。
「つまり犯人は、観音堂の外で被害者を殺害した後に、わざわざ遺体をあの観音菩薩像の前へと移動したのですから、やはり観音菩薩像に固執しているとしか思えないのです」
胡麻博士は打ちひしがれたような様子で大きな口を開けて、わなわな震えている。
「実に恐ろしいことだ。しかし謎が深まるばかりだ。犯人はどうして観音菩薩に固執するのかね」
「先生は、仏教にお詳しいのですから、なにかお分かりなるのでは、と思うのですが……」
胡麻博士はそう言われると困った様子で腕組みをして、ちらりと羽黒祐介の方を見る。祐介は浮かない表情をしているのみで、静かに煎茶をすすっている。
「僕は仏教には詳しくないので……」
と祐介は小さく呟いたが、なにか意見を述べなければならないと思ったのか、
「しかし犯人が観音菩薩像に固執するのは、きっと信仰上の理由からでしょう。歴史的にみて、観音菩薩に人間を供えるような事例はあるのでしょうか?」
と祐介の方から胡麻博士に尋ねた。
「仏教の歴史を紐解けば、苦行のようなものはいくらでもある。しかしそのような例は……」
胡麻博士はしばらくしてなにかが見えたように瞳が揺れ動いていたが、口を一文字に閉じて、
「思い当たらん」
と低い声で言った。
「まあ、カルト宗教は論理でありませんからね。観音菩薩をどう捉えるのもその信者の都合によります。これは犯人を捕まえて本人から聞き出せばいい話で、我々には想像することもできない領域の話です」
と藤沢は無理強いしないで、そう締めくくると立ち上がった。
「またご意見を伺うかもしれません。その時はよろしくお願いします」
こうして藤沢は袴田と一緒に、胡麻博士と羽黒祐介のいる八畳間を後にした。
「これは実に難解な事件だ。専門家に意見を聞くのはいいが、かえってくる答えが難しすぎて珍紛漢紛だ。袴田。お前は先生の言っていることがわかったか?」
と廊下に出ると藤沢は、窓から墨を塗ったような夜空を見上げ、吐き捨てるような口調で、袴田に尋ねた。
「わかりません。完全にお手上げです……」
「先生の言っていることは間違っていて、そもそもカルト宗教の信者が殺人を犯したのではないとしたらどうだ? たとえば単なる強盗殺人ということもまだ考えられるだろう?」
「それはそうですね」
「たとえば、二度に渡って観音堂で殺人が行われたのが、本当にただの偶然にすぎなかったとしたら……」
「その線で捜査してみますか?」
「ああ、不用意に宗教に足を踏み入れると火傷しそうだ……」
藤沢はそう言うと廊下を歩いていった。そこで振り返る。
「そうだ。今回は盗まれなかったか?」
「盗まれなかったか、と言いますと……」
「法具だよ。法具。前回の殺人事件では、金剛杵やら金剛鈴といった法具が、宝物館から盗まれていたんじゃなかったか?」
「そういえばそうでしたね。いえ、今回はそのような報告はまだ受けておりません」
と袴田はきっぱりとした口調で言ったのだった。




