38 法導和尚の言葉
藤沢刑事と袴田刑事はすぐに本坊に向かうことにした。本堂の裏に本坊はあり、廊下に沿って大小さまざまな座敷が連なり、美しい中庭があるところで、一般客が見学できるエリアと、寺の関係者だけが立ち入ることのできるエリアに分かれていた。
あたりはもうすっかり暮れているので、寺の中だけが照明で煌々と明るくなっている。ふたりが鶯張りの廊下を歩いてゆくと、奥の薄暗いところに梅の花が描かれた襖があり、その両側に警察官がふたり立っていた。
襖を開くと八十歳をとうに過ぎている年老いた法導和尚が、薄暗い座敷の真ん中で、まさに座禅を組んだ姿勢で、ふたりを待ち受けていた。
「お久しぶりです。栃木県警本部の藤沢隆市と申します」
「ふむ」
「二年前の殺人事件の際も、わたしが捜査を担当したのですが、覚えておられるでしょうか」
「そのわたしというものは一体どこにあるのだね」
と法導和尚は目を開くとじろりと藤沢刑事を睨んで言った。
「そのわたしというものを思うのは、まったく川の濁流を素手で掴もうとするが如きものじゃ……」
そう言って、法導和尚は咳払いをしてまた伏目になる。隣の襖には今にも踊りかかってきそうな猛虎が描かれている。
「いえ、その奥ゆかしい説法も二年前に拝聴したもので懐かしいですね。高名な御住職にまたお会いできて嬉しい限りです」
と藤沢刑事は愛想の良いことを言って歩み寄る。よく考える不謹慎きわまりない言葉である。
「嬉しいなどという感情は一時のまやかしだから捨ててしまいなさい。高名な住職などというものも所詮は幻だ。この袈裟もただのぼろ切れ。惑わされてはならぬ。己の目の前にいるわしは己の思うわしでは決してない……」
法導和尚はそう言ってひとつ咳をすると、にこりと微笑む。
「そうですか。いえ、お元気そうでなによりです。こちらに座っても?」
「さっさと座りなさい……。君は先ほどから言葉と行動とがいちいち分離してしまっておる。心と行動と口から発する言葉とがまちまちであるから人は思い悩むのだ。座るといったらたちまち座りなさい……」
「お言葉に甘えて失礼いたします。和尚、二年の歳月を経て、また観音堂で人が亡くなりましたね」
法導和尚はその言葉にしみじみと頷く。
「二年か。頭で年を数えればたしかに二年。しかしわしの目にはどちらもまさに今ここで起こっているかのようだ……」
「端的にお尋ねしますと、この殺人事件、御住職はどうお考えになりますか?」
と藤沢刑事は本題を切り出す。
「ふむ。一言でいえばフダラクはどこにあるのかという話」
「なんです? フダラク?」
「つまり観音菩薩とはなんぞやという話じゃな」
藤沢刑事はまた法導和尚の語ることが本気なのか冗談なのか、よく分からない。
「諸法は皆空である。自己は無自性というわけだが、その時、魂はどこにあるのかという話じゃな」
「御住職にお聞きしたいのは、犯人に心当たりがあるかということなのです」
藤沢刑事は話が脱線していると思って、慌てて軌道を修正する。
「犯人に心当たりはない」
と法導和尚がはっきりと言い切ったので、藤沢刑事は落胆した。
(なにか知っていそうだが……)
しかし八十歳を過ぎた老人を問い詰めるより、実質的な寺の管理者を問い詰めた方が成果が得られそうでもある。藤沢刑事は、法導和尚の語ったことを真剣に捉えようともしないのだった。
「もし、殺人事件の真相を知りたいのならば、あの観音菩薩像についてよく調べることじゃ……」
「観音菩薩像について……。あの観音堂の観音像ですか……」
「さよう。二年前にもあの観音さんの傍にご遺体はあったわけじゃ。そして今回も同じ。つまり観音さんの傍らには必ず仏ありというわけじゃ」
藤沢刑事は法導和尚の言っていることがいまいち分からない。
「あの観音像が殺人事件と関係があるとおっしゃるのですか」
「知らぬ!」
と法導和尚は怒鳴った。藤沢刑事は驚いて、法導和尚の顔をまじまじと見つめる。
「しかし、きっととんでもない勘違いをしている者がおるんじゃわい!」
そう叫ぶと法導和尚はものすごい勢いで立ち上がろうとして袈裟の裾を足で踏んで、畳の上に激しく転がった。
「あっ、和尚!」
廊下から若い僧侶がふたり走り込んできて、法導和尚を助け起こして、仰向けに寝かせる。和尚は呼吸を乱しながら、どうにか生きている様子である。
「はっはっは。まったく肉体の衰えばかりはどうにもならんな」
法導和尚は愉快そうに笑っている。
藤沢刑事は、法導和尚の語ることはすべて訳がわからないと思って、やはり本気にしなかったのだった。そのために和尚が吐いたフダラクという言葉も、藤沢刑事の意識の中でだんだんと薄れていったのである。




