36 金剛鈴をどうするか
魔が差したなんて言葉があるが、のぞみはこの時、本当にこれが仏様から手渡されたような気持ちになっていた。金剛鈴は鞄に入れるとずしりと重たい。小さな鞄が膨らんでしまって、あきらかに不自然な見た目だが、のぞみは揚々とした気持ちになって半ばスキップする足取りで路地裏から抜けると、商店街から一本外れたシャッターばかりの寂れた大通りを歩いていった。
(金剛鈴だ。わたしは今、金剛鈴を手にしている……)
金剛鈴についてはよく知らないが、金剛杵が鈴になったら、それすなわち金剛鈴ということで、あくまでも密教の儀式に使うものらしい。
(つまり密教を学べ、ということかしら……)
とのぞみは思って首を傾げる。
密教は、仏教の中でもとりわけ呪術的な仏教である。特に真言宗と天台宗の密教が有名である。
密教は、奈良時代より多面多臂の仏を信仰対象に多く含み、日本においては古来からの山岳信仰とも合流する形で発展した。もっぱら現世利益のある祈祷仏教で、平安時代初期には疫病に効用があるということで、非常に重んじられた。
弘法大師空海がもたらしたのは、もっぱら密教の理論化であった。
平安時代、密教の後に特に興隆したのが浄土教である。
天台宗の三代座主円仁は唐に渡り、教えを持ち帰って、天台宗の密教を完成させたことで有名だが、実はこの時、阿弥陀如来の名前を唱える念仏も導入していた。それは複数人で美しく合唱する念仏で、法照流五会念仏というものであった。
平安時代中期に記された高僧源信による著作「往生要集」には、極楽浄土と地獄が如実に描かれ、阿弥陀如来の極楽浄土信仰はその後、仏教界をまたたくまに席巻してしまった。
平安時代末期に、末法思想にもとづく阿弥陀如来の極楽浄土信仰が盛んになると、密教は少しばかり後退した感がある。
真言宗中興の祖である覚鑁は、新義真言宗の根来寺において、浄土信仰を密教の中に吸収し、阿弥陀如来の極楽浄土ではなく、大日如来の浄土、密厳浄土を説いている。
大日如来は、真言密教においては宇宙仏とされて、この世のありとあらゆる存在、時空を包括する仏といえるだろう。
というようなことは、のぞみがまだ知るはずもないが、美術家であるのぞみは密教のどこかおどろおどろしく神秘的な世界観に魅力を感じている。
(わたしも密教を学ばなきゃならないんだな、きっと……)
のぞみはそう思いながら楓のいるアパートに到着した。
アパートの一室に入るとそこには楓の姿があった。楓はベッドの上でごろごろ転がっている。彼女は、のぞみを見るといやににこにこと笑っている様子で、ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がり迫ってきた。
「のぞみ。今日、いなかった」
「そう。残念だったね……」
「明日は日曜日だけど、サークルがあるかもしれないから、一日中、橋で待ち伏せしようかな」
と楓はとんでもないことを言い出す。
「そんな無理しなくても。月曜日にまた探してみれば……」
「月曜日か。ずいぶん先だなぁ」
楓はそれでもひどく機嫌がよかった。
のぞみは鞄の中から金剛鈴を取り出すと、楓の顔の前に近付ける。
「なにこれ……」
「これね。不思議な縁でわたしのもとに転がり込んできたんだ……」
のぞみは落ちていたものを拝借したとはさすがに言わない。
「こんなもの、どうしようっての……」
「わからない。でもお守りにするんだ。持ち歩くには重いけど……」
そう言って、のぞみは笑いながら、飾り棚の真ん中に、金剛鈴を置く。
「そこは神棚でも仏壇でもないんだよ……」
と楓は嘆くような声で呟いた。




