33 寂しくなる夜の商店街で
のぞみは、楓が出て行ってしまった後で二人分の料金を支払って、喫茶店を後にした。
(二人分お金を払った……)
のぞみはそんなことに神経を使う方ではなかったが、こんな時に神経を使うのは仏教の寛容さとは反すると思えば思うほど、引っかかりを感じた。
(いいんだ。どうしてこんなに気になるのだろう……)
感情を滅しようと焦ると、かえって神経を鋭敏してしまうものだとのぞみは思った。
ひとり残された寂しさを他の感情に転換してしまっているのかもしれない、とのぞみは思った。
のぞみは、夕暮れ時とはいえ、せっかく外出したので、すぐに帰るには惜しい気がした。仏教のことも少しずつ分かってきたこの頃。もう少し色々考えながら歩きたい。
デパートを後にすると、古びた商店街が続いているところに出た。古めかしいネオンには「よっちゃん」という居酒屋の店名が記されている。
(もし、わたしがよっちゃんという人を知っていて、その人を嫌っていたら、このお店の名前を見て、嫌な気持ちになるだろう。そしたら、わたしはこのお店を嫌なお店と思うことだろう……)
その存在をその存在たらしめているのは自分の心なのだ、とのぞみはあらためて思った。
のぞみは円悠に以前聞かされたことを思い返していた。その存在をその存在たらしめているのは常に自分の心なのだ。五感をもって、その存在を認識しているだけでは、その存在に対して多くの感情を抱くことはないだろう。それでも、わたしたちはそのものを好んだり嫌ったりする。それは概念をつくりだす心と、自我をつかさどる心による心作用のせいに違いない。
(わたしはたまたまよっちゃんという名前に好感を抱いている。だから、わたしはこのお店を見ても不快にならない。そういうものをつくり出しているのはわたしの心だ……)
のぞみは自分の胸を押さえる。
(だから、楓がお金を払わずに飛び出して、喫茶店にひとり取り残されていた時、わたしはわたしという視点を脱することができないで、楓に不満を抱いた。つまり自分の自我意識のために、楓を好ましくない存在にしてしまったのだ)
その自我意識によって存在を生じさせる心は、仏教風にいうと末那識というものだが、それも本来はないはずのもの。ないはずのものをあるものとしてしまうのも自分の心なのだということを円悠は語っていた。
(それでもわたしが円悠を好んでいること、それ自体が、わたしの末那識のためでもある。円悠はわたしにとって大切な人だ。それでも楓は円悠を見ても何も思わない。わたしと楓は異なる末那識を持つから、円悠を異なる存在として生じさせてしまうんだ。そういう意味では、わたしの心こそがわたしにとってのかけがえのない円悠をつくり出している。わたしは末那識のために、夜になると円悠を恋しく思っている……)
のぞみはそんなことを考えながら、ふらふらと商店街を歩いていった。すると見えるものすべてが自分の末那識によって生み出されている気がした。
次第に紺色に染まってくる空、反対に目立ってくるネオンの数々。蕎麦屋の看板を見ると、蕎麦を食べたいと思う。寿司屋の看板を見ると、寿司を食べたいと思う。その時、蕎麦を食べたいという気持ちは消えている。気持ちは次々と移り変わって止まるところを知らないのだった。
(それでもわたしは自分の心がとどまっていると思っている……)
その時、自分という存在から抜け出すことは容易ではない。のぞみはそう思うと胸がずんっと重く沈んだような気持ちになった。
(この自分という存在から抜けられない感じが末那識なのかな……)
のぞみは円悠に相談したくなった。こんなことでは一向に無心になどなれない。無心になれずに悩み苦しんでいるようでは、仏教を学ぶ意味などないだろう、とのぞみは思った。
円悠に連絡をしようとスマートフォンを取り出したのぞみは躊躇してしまう。
(わたしにとって円悠は大切な存在だ。だからわたしは気軽に連絡することなんてできない……)
それは自分の末那識のせいなんだ、とのぞみは自分の気持ちを説明する。
そしてこんなに寂しくなって夜道を歩いているのも、わたしの末那識のせいなのだ。楓も円悠もなにも意地悪をしているわけでないのに、理由もなく、わたしはこんなに寂しくなっているのだ、とふと涙が込み上げてくる夜だった。
のぞみは自分の心をとらえどころのない不思議なものと思いながら、寂れた商店街を静かに歩いて行った。




