32 橋の上の胡麻楓
胡麻楓は、森永のぞみとふたりでデパートの洋服売り場で買い物をしながらスマートフォンの時計を見ると、もう午後三時近かった。
胡麻楓はデパートの色とりどりの商品の数々を眺めながらも、絶えずジャズ喫茶に訪れたあの青年のことをずっと考えていた。そして「もしもわたしたちが結ばれたなら」という文句が繰り返し楓の脳裏によぎっていた。
(もしもわたしたちが結ばれたなら、こんな洋服の一つ一つをふたりで見ながら歩いて……)
しかし、楓の記憶に残る、青年の顔にはどこか深い翳りがあったような気がする。その理由はわからない。どんな理由があるにしても、わたしは彼のためなら何でもするつもりなのだ、と思って楓は右の拳を強く握った。
(そうだ。わたしは彼の力になろう……)
ふたりは暗がりの中、美しくライトアップされているエスカレーターに乗って上階へと向かっている。親友ののぞみはどういうわけか、楓の父、胡麻零士に強い関心を抱いているようだった。それは楓にとって非常に気恥ずかしいことで、できることならそもそも父とのぞみを会わせたくなかった。仏教に関心のあるのぞみが民俗学者である父、胡麻零士に関心を持つことは自然なことともいえるが、楓は関係を持つはずのなかったふたりが親密に結ばれてしまった現状に、わずかに気味の悪さを感じていた。
(一体この先どうなるのだろう)
人が出会うというのは、摩擦が起きたり、化学反応が起きたりすることだと常々楓は思っている。この先、ふたりがどんなことを始めるのか想像するだけでも恐ろしい。
「そういえばさ。アパートに金剛杵あるじゃん?」
とのぞみが話しかけてきた。しかし楓は金剛杵という言葉に思い当たる節がない。
「コンゴーショ?」
「そう。ほら、枕元にあった金色の……」
「ああ、あれ。あんなの。いや、違うよ。そんな……」
楓は、父から譲り受けたあの摩訶不思議な法具についてのぞみに尋ねられたことで、急に赤面した。
「何が違うの」
「わたしはいらないって言ったんだよ。でも、渡されちゃったの」
「誰に」
「お父さんだよ。当たり前じゃん。だって、あんなもの、他に手に入らないよ……」
そこで合点がいったようにのぞみは深く頷いた。
「やっぱりね。あれはお父様が下さったものなんだね」
「お父様って言い方やめてよ。下さったんじゃなくて押し付けられたんだよ。民俗学者なんてかっこつけた肩書き持ってるけど、あんなのただの化け物だよ」
しかしのぞみは胡麻博士をすでに深く尊敬しているので、この話を羨ましそうに聞いている。そしてもう一度、こう尋ねた。
「あれはどこで手に入れたものなの?」
「うん? どこって? だからお父さんから」
「そうじゃなくて。なんて言うのかな。あの金剛杵は最近作られたものじゃないよね。ちゃんとした文化財のようだった。だからどこかのお寺に保管されていたものじゃないかと思ったんだけど……」
そんなことを言われても、楓が知るわけもない。大体、父親に押し付けられた金剛杵がどこかの寺の貴重な文化財だったなんて考えたくもない。楓は手を振って誤魔化した。
「そんなわけないじゃん。お父さんから押し付けられたんだよ? あれが何百万円も、いや何千万円もする文化財だったら、今頃わたしのアパートには泥棒が入っているよ」
と多少無理のある理屈で、あれが大したものではないと楓は必死に強調する。実際、楓にしてみれば、そんな貴重なものをアパートに置いておくのはいかにも物騒に感じた。危険を感じ始めたせいか、父親の配慮の足りなさに無性に腹が立ち始めた。
(まったく何を考えているんだろう……)
ふたりはデパートの一階にある古風な喫茶店に入った。デパートが古いこともあって、喫茶店も古いままなのだった。ふたりは細長い店内のテーブル席に座った。本棚に古い漫画雑誌が並んでいたり、スポーツカーの模型が飾られていたりする。水槽には名前のわからない魚が泳いでいる。ふたりはコーヒーを飲みながら、あれやこれや話す。ここでのぞみがあることを切り出した。
「楓。もしかしたら誰か好きな人いる?」
単刀直入に尋ねられたので、楓はううっと小さくうめいて、無意識にその場から逃れようとするが木の椅子が重くて動けなかった。
「いや、あの、その……」
「言いたくないなら……」
「いえ、むしろ言いたいです。そう。わたしは今、恋をしています。でも、それをなぜ、のぞみが……?」
楓はすでに自分の恋愛話を他人に語れることに喜びを感じはじめていた。足の指先から頭の上までつんとした痛みが伝わって、今にも体が跳ね飛びそうになるほど、じっとしていられなくなる、この異様な昂揚感をなんと表現してよいか、楓にはまったくわからなかった。
「なぜって。だってお寺で叫んでたじゃん」
「叫んでいた。わたしが……」
楓はそう言われてみるとたしかにそんなことをしていたかもしれない、と思った。しかし不思議なことにこの瞬間まで楓は、のぞみにこのことを気付かれているなどとはまったく思っていなかった。
楓は興奮しながら、今までにあったことを話した。のぞみは頷きながら聞いている。一体どれほどの時が経ったことだろう。のぞみは満足そうに頷いて、コーヒーを一口飲むと、語りはじめた。
「それはね、楓。以心伝心というやつだよ」
「い、以心伝心……?」
「禅の言葉なんだけどね」
(また仏教なの……?)
楓は若干、疑問を感じた、のぞみは淡々と説明を続ける。
「本当に大切なことがらは言葉ではなく、心と心のやりとりなの。だからそのイケメンと楓は心と心のやりとりをしたんだよ」
「そう、でしょうか。そうだとしたらわたしはこの後どうすれば……」
楓は身を乗り出した。テーブルに乗っていたコップがごとんと音を立てて、倒れそうになるが、間一髪のところで持ち堪えた。
「待ち伏せを、しなさい」
「ま、待ち伏せ?」
「橋の上で」
「橋の上で……」
「大学があるのは橋の向こう。大学を終えた生徒は必ずと言っていいほど、橋を渡って、家に帰る。だから橋の上で待っていれば、いつか必ず会えるんだよ」
とその言葉を聞いて、楓はいてもたってもいられなくなった。
「ありがとう。のぞみ。わたし早速、今日、橋の上に立ってみるね」
「えっ。だって今日、土曜日だよ?」
のぞみは驚いて素っ頓狂な声を出す。
「でも、土曜日も授業あるし。わたし、今日から橋の上で彼を待ってみる。ごめんね。わたし、五限の終わりの時間に間に合うようにもう行くよ」
そう言うと楓は椅子の上の鞄を引ったくって立ち上がり、飲みかけのコーヒーを一気に飲み干すと、お金も払わずに、喫茶店から飛び出したのだった。
この時、楓の心を支配していたのはまったく理屈ではなかった。ただ彼に会いたいという気持ちから、できることはすべてしたいという強い感情だけが楓を突き動かしているのだ。楓はデパートを飛び出すと、日が暮れてゆく中、歩道を走ってあの大通りの橋の上へと駆けていった。
息が切れて、何度も立ち止まったが、その度に楓は、
(はやくしないと彼に会えないかもしれない……)
と思った。そして何度も走って、橋の上にたどり着くとそこには人影もなかった。
(ここで待とう。もしかしたらまだ大学の中にいるのかもしれない……)
なぜ楓はこれで彼に会えると思ったのだろう。でも、楓にとってみれば、もう理屈なんてどうでもいいのだった。青春というものは今という一瞬にすべてをかけることを言うのだった。この日、楓はずっと橋の上にいたが、彼が現れることはなかった。
 




