31 第一の殺人
ここまでの展開で、この小説がミステリーなのかどうか分からなくなっている読者も多いことだろうと思う。一向に事件が起きないからである。しかしこの物語において、仏教の思想と民俗と現在の殺人事件は渾然一体となっており、したがって読者はあらかじめ仏教に関する一般以上の知識を有する必要があった。そしてそれはこれからも続くことになる。しかし、ここで物語は急展開を迎えることになる。
胡麻博士が阿弥陀如来坐像を見上げて、しんみりと物想いにふけっている、その時だった。先程の松倉正善という僧侶が、堂内に勢いよく走り込んできた。仏像を眺めていた祐介と真悟も驚いて振り返る。
「大変です。胡麻先生!」
松倉正善はそう言うと、胡麻博士の両腕を掴んで、ぜいぜいと喘息のような喉音を鳴らしている。
「どうしたね。そんなに慌てて……」
「あ、あの、胡麻先生がおっしゃられていたので、そこの観音堂に立ち寄ったのですが、まさか……あの……その……」
「そんなに焦って説明してはいかん。心は常に無心でなければならないのだろう? ええい。観音堂で何があった!」
「ええ。すみません。ひ、人が亡くなっているのです。胸元に包丁がぶすりと刺さっています。一面血まみれですよ。今、わたし、寺務所に言ってきます!」
と松倉正善は早口でそう言うと、胡麻博士を突き放して、堂内の先程自分が入ってきたところと反対の出入り口に向かって走ってゆく。その先には寺務所がある。
「なに、人が亡くなっているとな。それも包丁を突き立てられて。これは不吉だ。羽黒君。どうやら君の出番のようだな」
胡麻博士に言われて、祐介は頷いた。
「現場は観音堂ですね。わかりました。すぐに向かいましょう」
祐介はまだ事態を飲み込めていなかったが、探偵としてすぐにその場に急行しなければならないと思った。
祐介はひとりで、本堂の出入り口のひとつから勢いよく飛び出した。そして八角形の観音堂に向かって走ってゆく。この観音堂は、山奥にある江戸時代に建てられたものではなく、事件後に新しく建てられたものであった。
祐介はその観音堂の入り口付近に走り込んだ。そして、大きく開かれている観音開きの扉の影から内側を覗き込んだ。本堂の中央に観音菩薩立像がそびえたつ、その足元に、血まみれになって仰向けに倒れている若い女性の姿があった。黒い上着を羽織っており、ロングスカートを履いている。長い黒髪がばっさりと乱れて、床に広がっている。両目は開きっぱなしで、その黒目には、どう見ても血の気が宿っていなかったのだった。リュックサックも落ちている。
「これは完全に殺人事件だな……」
祐介は当たり前のことを呟いた。
(リュックサックを見ると、どうやら観光客か……)
祐介がそんなことを考えていると、若い僧侶たちが本堂の方から走ってきた。皆、我先に、と他の僧侶を追い抜いて、徒競走の勢いで走り込んでくる。一番最後にどうにかついてきているのは松倉正善だった。
松倉正善は息も絶え絶えで、膝に手をついて、しばらく何も言えなかった。
「ふう。ふう。すみません。大丈夫です。あ、あの、すぐに救急隊と白緑山署の警察が来てくださるそうです。ああ、でも、どうしてこんなことが……」
「真相は分かりませんが、後は警察の方にお任せする他ないでしょう。我々にできることはもうあまりありませんので」
と羽黒祐介は言った。そう言って振り返ると、暗い観音堂の中で、やはり先程の遺体が転がっている。どう見ても生きている気配はない。もう一度、振り返ると僧侶たちは皆、合掌し、なにかお経のようなものを唱えていた。
祐介は腕時計を見た。すでに時刻は午後四時をまわって、針は四時五分を指している。