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29 生きていけないような

「胡麻先生、探しましたよ!今までどこにいらっしゃっていたのですか」

 走ってきたのは中年くらいのまるまると肥え太った僧侶で、剃り上げた頭頂部が多量の汗でてかてかと輝いている。おそらく今まで胡麻博士を探していたのだろう。

「山道で迷っておった。すまなかった。早速、本堂に案内していただこう」

「道に迷っていた……! どうかお気をつけください。この山の中は急所が多く、滑落する危険がありますので……」


(この山が極楽浄土だというのに滑落したらどこへ旅立つというのだろう……)

 と胡麻博士は太った僧侶の言葉に首を傾げた。昔、すぐに極楽浄土に旅立ちたいがために自殺を行なったものがいた。末法の世においてはそういうことが行われていたのである。こうした風習は、熊野の補陀落渡海(ふだらくとかい)が有名である。


 胡麻博士は、この太った僧侶のレベルを以前から理解しているので、たとえ疑問には思っても、難解な問答を一方的に仕掛けることはない。


 祐介は仏教には詳しくない上、助手という役まわりを引き受けているので、静かにしながら柿崎真悟と並んで胡麻博士の後ろをついてゆくばかりである。

 胡麻博士は、太った僧侶が、以前からの付き合いもあって、松倉正善(しょうぜん)という名前であることを知っている。

 正善は、胡麻博士を連れて、本堂に案内する。胡麻博士がこの寺に来るのはすでに何度目かであったが、博士は訪れる度に、必ず本尊の阿弥陀如来坐像に礼拝するのであった。

「いつ拝んでも、慈悲深いお顔の阿弥陀さんじゃ。末法の世に阿弥陀の慈悲はよく沁みるわい。しかし今回、わしが訪れたのは阿弥陀さんにお会いすることばかりでなく、実は観音堂の十一面観音菩薩像に関することなのだが……」

「はあ、十一面観音菩薩さまに関することで……」

「さよう。それにつけても、収蔵されている古文書を読ませていただきたい」

「かしこまりました。宝物館の裏に収蔵庫がありまして……」

「それと和尚はお元気か」

「ええ、和尚はいつもと変わらなく……」

「少しの時間でも構わぬから、お会いすることはできんかね」

「それでしたら、わたしくからお伝えしておきます」

 胡麻博士は淡々と正善と会話を交わしてゆく。胡麻博士はしばらく本堂に居残って、仏像を拝むことにしたようだった。正善では、元より話にもならないから、胡麻博士はただひとり本堂の柱の木の香りと土臭さ、そして線香の香りを口いっぱいに吸って、黙々と阿弥陀如来坐像を眺めている。

 平安時代に、天才仏師(ぶっし)定朝(じょうちょう)が、宇治の平等院の阿弥陀如来坐像や法成寺の仏たちを造立し、仏像界を震撼させ、仏の本様(ほんよう)と称されて、一世を風靡した後には、定朝の仏像の外見を模してつくられた「定朝様(じょうちょうよう)」の仏像が大流行した。この仏像も当時の「定朝様」の仏像であることは間違いない。

 胡麻博士は、仏の面影の中に末法の暗がりと慈悲の輝きが共に眠っていると思った。


 祐介は、一刻もはやく観音堂で起こった殺人事件の調査を始めたいところなのだが、胡麻博士の助手の振りをしていながら、僧侶たちにずけずけとそんな質問をしてまわっていては怪しまれてしまう。だから今は静かにしている。柿崎慎吾は、時間を持て余しているように、堂内の仏像を見て歩いている。祐介は慎吾の精神状態がだんだんと心配になってきた。


(まるで自分みたいだ……)

 祐介は、慎吾に過去の自分を重ねていた。祐介は名前の分からない仏像を眺めている慎吾に背後から近づいていった。

「君は、ずっとこの事件のことを調査しているのかい?」

「なぜです」

「いえ、そんな気がしたから……」

「僕が弥生について調べ始めたのは半年前からです。それまではこのことから逃げだしたかった。だって事件の真相が分かったって弥生が戻ってくるわけじゃないから……」

「それならば何故、君は事件の調査をはじめたの」

「いえ、それは弥生をこのままにしておくと、自分が生きていけないような気がしたからですよ」

 そう呟くように言うと慎吾は、暗い面持ちで祐介に背を向けて歩いていった。


(生きていけないような。そうだ、あの時、自分もそう思っていた。そして彼も今、そう思っているんだ……)

 祐介はそう思って、慎吾が先ほど見つめていた名前の分からない仏像に向き直った。仏像の目には、自分の心が映っているように思えたが、祐介にはその心が分からなかった。

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