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2 大学へと続く坂道

 マスターが到着したのは、その三十分後のことだった。

 マスターは汚れたブラウン色のコートを羽織っていて、白髪が女性のショートカットの長さで切り揃えられている。なんとなく痩せ衰えたプードルを思わせる見た目だった。年はもう六十代後半で、そろそろ店をたたもうかと考えていた時に、楓が店を訪れたのだった。

「おお、すまんすまん、寝坊しちまってな」

 とマスターは悪気なさそうに言いながら、楓の元に近付いてきた。


 楓は苦笑いをしてマスターの横っ腹を軽くどついたが、それ以上のことはしなかった。マスターは店内の様子を眺めると、楓の方に振り返った。

「誰か来たのかな」

「若い男性が一人」

「誰かな……」

 常連客ではないことは確かだと思った。それはあの男性の店内を眺めている目つきで分かる。楓は男性が忘れていった本のことはマスターに喋らないでおこうと思った。マスターに没収されてしまう恐れがあるし、男性とのことに触れられることもなにか恐ろしく感じられていた。

 自分でもそれが敏感な問題なのだということが分かっていた。

 マスターはスピーカーの方に振り向くと、店内に流れているフルートの音色に合わせて、体を揺すり始めた。

 マスターはわたしの気持ちの変化に気づいていない、何も知らない、それが楓はちょっと不思議な感じがした。


 楓はそれ以降の時間も、ぼんやりとしていた。先ほどの男性のことが気になるのだ。この出会いにはどんな意味があるのだろう。それとも何の意味もないのかな。

 夕方に大学の講義があるので、楓は三時にはここを出て、そのまま大学に向かうことになる。大学はこのジャズ喫茶からそう遠くない場所にあった。

 平日の昼間のジャズ喫茶はすいているものだ。楓もマスターも時間を持て余していた。

 午後三時になり、楓は支度をしてジャズ喫茶から出た。彼女が扉を開けると、冷たい風が肌のまわりをかけめぐるように通り抜けていった。見上げると青空の真ん中に日が輝いている。

(何かが始まろうとしている)

 楓にはそんな予感があった。急ぎ足で螺旋階段を降りて、一階の階段沿いに置いている自転車にまたがって明るい方へと走り出した。


 この街にはやたらと坂道が多い。霊山から流れてくる川に近付くにつれて低くなっている地形だった。大学はその川の向かう側にある。

 楓は自転車をこいで、細い坂道を勢いよく下っていった。傾斜した道の両側にはモダンな三階建ての住宅がずらっと並んでいる。灰色の壁が古風な城壁のように見えた。それは長方形の組み合わせによって不自然にのっぺりとしていた。その住宅に絡みつくようにして伸び続けている樹木の葉がいきいきと輝いている。

 この街の樹木は異様に生き生きとしているのだ。

 楓はほとんどペダルを漕ぐこともなく、冷たい風に包まれていた。彼女は坂道の下につくと、そのまま左右に曲がった道を縫うように走って、大学へと急いだ。

 広々とした車道が街の真ん中を貫いている。その両側にはさまざまなビルが建ち並び、一階部分にはお洒落な飲食店が並んでいる。アイスクリーム屋さん、イタリアンレストラン、東南アジア料理店、それに紅茶専門店もあった。

 楓は車道を斜めに横断しながら、ペダルに体重をかけて、一気に加速させていった。

 勢いのよい川が左から右に向かって流れている。車道はいつのまにか橋の上を通っていて、その先に大学の巨大なビルが山脈のように連なって見えてきた。

 楓は歩道に乗り上げて、左右に開け放たれた正門の中へと飛び込んだ。植えられた樹木の枝葉の下をくぐって大きなカーブを描き、奥まったところにある駐輪場に自転車をとめると、講義室のある17号館へと急いだ。


 楓は広々としている賑やかな講義室に入ると、前から八列目ぐらいの壁際の席に座った。そこはまったくやる気がないわけではないが、やる気があるわけでもない学生が座る席だった。大学の席は特に指定されていない場合、まずやる気がある生徒ほど前列に座る。

 教壇の目の前に座るのは、その講義によほど興味がある人間か、自己顕示欲がものすごく強い人間だと楓は思っている。

 かといって一番後ろの方の席に座るほど後ろめたいこともないし、それは授業料からしてもったいない気がする上、ある程度の成績を取りたいと思っている楓は、中庸の精神で、前から八列目くらいに座ることにしている。しかし下手に中央の席に座ると目立ってしまい、教授に当てられる恐れがある。そこで窓際と反対の壁際の席に座る。


 楓は、八列目の席に座って、講義室内を見まわした。もしかしたらあの男性がこの講義室に現れるのではないか、という期待があったのだ。

 楓のまわりでは、がやがやと男女が下らない話をしている。

「昨日の特番見た?」

「え、なんも見てない。てか、俺、テレビ持ってない……」

「あ、そうか。そうだったね」

 隣で気まずい時間が流れている。

「で、なんかやってたの?」

「いいのいいの……気にしないで」

「一応、話せよ。やめろよ、なんだよ、そのいたわってるような空気……」

 下らない話かどうかは他人である楓には判断することはできないが、楓にとってはあの男性以外の話題はいまやすべて下らないものに成り下がっていた。

(この大学の学生なのかな……)

 しばらくして講義室に現れたのはあの男性ではなく、頭の美しく禿げ上がった教授だった。


「はい。それでは授業を始めます。今回のテーマは関東武士団の成立です。皆さん、ご存じかな」

 と教授はぶつぶつ訳のわからないことを言いながら、プリントの束を鞄から取り出して、それを生徒に配り始めた。前列の生徒にまわされたプリントを楓は後ろに流す。

 楓は渡されたプリントの余白に、シャーペンであの男性の顔の輪郭を描いた。細いしゅっとした顎。そして髪型を描いているうちになにがなんだか分からなくなった。

(細かいところが再現できない……)

 楓がそのことを残念に思っていると、講義はいつのまにか先に進んでいたらしく、楓は黒板に記された理解のできない熟語の数々をとりあえずプリントに書き写した。

 関東武士団に関する歴史の講義は、楓がほぼ理解できていない状態のまま終わってしまった。

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