28 空に迫ろうとする若いお坊さん
祐介は円悠の言っていたことはちっとも分からなかったが、二つの道のうち、右の道を進んでゆくと確かに立派な本堂があるところに出た。そこは山の上のとりわけ眺めの良いところで、巨大な本堂の近くに鐘楼や、真新しい六角形の観音堂があるのが見えた。
「あの若いお坊さんは熱心によくものを考えておるよ」
と胡麻博士は感慨深そうに言った。
「僕には分かりませんでしたが……」
「あのお坊さんの言っていることは、たとえるならば……君は、あの五重塔とあの山並み、どちらが美しいかね」
「あの五重塔と山並み。それは僕の目には……五重塔には今まで縁がありませんので、どちらかというと山並みの方が美しく見えていますね」
「すると五重塔は、山並みに比べて美しくないということかね」
「そうはいいませんが……」
「しかし、美を比較するというのはそういうものじゃろう。美醜というものは、一方が美しければもう一方はそれと比べて美しくないわけじゃ」
「それはまあ、そうですね」
「五重塔も山並みを美醜という観点で比べて見た時には、それぞれの個体差は無視され、同質なものとされて比較される。そのため、どちらかがより美しくてどちらかがより醜いということになってしまうものさ。ところが五重塔の美しさと山並みの美しさは本来、質的にまったく異なるものでな。比べることなど到底できないものなのだ。それは青と赤、どちらが美しい色かと問うているようなものだ。あるいは、ピアノの音色とトロンボーンの音色、どちらが美しいか比べるようなものさ」
「それはたしかにそうですね」
「わしらはいつだって、そのものの内容を問わずに、脳内で価値を単純化してとらえようとする。すなわち数量化して、大きさ、あるいは小ささとして語ろうとしているのさ。どれくらい美しいとか、あまり美しくない、などというのはそのためだ。しかし大切なのは美しさの内容じゃ」
「おっしゃることは分かります」
「そのものの価値は他と比べようもなく、そのもののうちにしかないということさ。また存在は、美しいもの、醜いものとしてあるのではなく、ただ条件が合わさってそのように認識されているだけのことさ。つまり美と醜は見るものと見られるものの関係が生み出すものでなくてなんであろう。そうした中で、美と醜は、解きほぐせないほどに結びついておる。実際、山並みは美を含んでおると同時に醜も含んでおるのだ。それは五重塔も同じだ。美は五重塔の存在の一面にすぎない。それと同じように醜も存在の一面なのだ。いずれにしても、二つあるものの一方を美しいものと名づけ、もう一方を醜いものと名付けるのは浅はかな行為だ」
「はあ。おっしゃることは分かりますが、しかし、それと彼の語っていたことがどう関係あるのですか? つまり二つの道と……」
「大いに関係あるのだ。物事をなんでも単純にとらえようとすると人は誰でも二元論に行き着く。善と悪、美と醜、長と短、優と劣。これらは価値を大か小かでとらえておるのだ。そればかりではなく、精神と肉体というように、本来、切り離すことのできないひとつのものを異なる両極端なものとしてとらえることがある。わしらは度々、精神と肉体を分けてとらえようとする。しかし精神とは肉体のひとつの作用であり、肉体とは常に精神に影響を及ぼされている事物なのだ。この二つは常に関連していると考えるのが本当だろう。しかしわしらはそれを分けて考えてしまう。そしてついには二元論でしか物事を捉えられなくなるのが人間というものだ。結果、わしらの生活は二元論でがんじがらめだ。そういうことをしておるうちは、わしらがこの五重塔や山並みの本来の美しさを感受できないのと同じように、物事を表面的にしかとらえることができん。あいつめ、自分の背後の二つ目の道を二元論に見立てておったのよ。わしは二元論のいずれにも偏ろうとさせまいとするあやつの魂胆に気づいた。そこでわしは二元論のどちらにも偏りのない中間の境地、すなわち「中道」について尋ねたのだが、あやつは「中」にとどまろうとすれば、今度は「中」にとらわれると言いおった。これはあのお坊さんが、中道を説いた釈迦の言葉に反しても、大乗仏教の教えの根幹である、空に迫ろうとしたのだ」
そう言って胡麻博士は、はははっと笑い声を上げた。
「なんです。そのクーっていうのは……」
祐介がそう言ったところで、本堂から一人の僧侶が飛び出してきた。