27 二つの道と円悠
祐介は、目の前の青年が一向に語り出さないので、自ら口を開いた。
「実を言いますと、わたしは私立探偵でして……。池袋の明治通り沿いに探偵事務所をかまえている羽黒祐介と申します。先日、田崎弥生さんのお兄さんから妹を殺害した犯人を突き止めてほしいという調査の依頼があって、今日はその調査のために白緑山寺に来ているんです」
羽黒祐介がそう言うと青年は深く頷いた。そして、それまで黙っていたのが嘘のように、堰を切っ話し始めた。
「探偵さんだったのですか。道理で、なにか知的で鋭い目をしているわけですね。弥生のお兄さんがそのような依頼をしていたのは驚きですが……。きっとなにかあの人にも理由があるのでしょうね。いえ、実を言うと、僕も弥生がなぜ死に至ったのか独自に調べていたところなんです」
「そうだったのですか……」
「ええ、弥生が命を落としたこのお堂を観察すれば、少しでも真実が掴めると思っていましたのが、僕の考えが浅かったようです。こうしていても気持ちが暗くなるばかりで……。申し遅れましたが、僕は白緑山大学に通う学生で、柿崎慎悟と申します」
会話が盛り上がってゆくふたりの様子を側から眺めていた胡麻博士は、突然、参加したくなったらしく声を上げた。
「おやっ、今は自己紹介タイムというわけだね。申し遅れましたが、わしは胡麻零士。東京の片隅で、仏教民俗学を細々とやっているケチな大学教授だよ」
と胡麻博士は、葛飾柴又の団子屋のような説明をはじめる。
「えっ、すると天正院大学のあの胡麻先生ですか……」
慎吾は驚いて、まじまじと胡麻博士の顔を見つめる。
「いかにもそのわしだ」
「これは奇遇というかなんというか……。実は今、胡麻先生の著作を熱心に読んでいたところだったんです。山岳信仰に関する本なのですが……。白緑山寺や山岳信仰について理解を深めることが、弥生の死を解き明かすことにつながると思っていまして……」
胡麻博士は慎吾が予想以上に反応がよかったので、これには少し狼狽した様子で、
「そうか。このような偶然は万が一にもないことであるから、なにか深い縁あってのことだろう。我々三人、不思議な縁によって結ばれているようじゃ。まあ、慎吾君、分からないことがあったらわしに直接聞きなさい。それよりも、どうだね。このようなところで長話をしていても疲れてしまうし、実を申すとわしは本堂でお坊さんを待たせておるのだ。これから一緒に本堂に移動しつつ色々なことを語り合おうではないか」
祐介と胡麻博士はこのようにして柿崎慎吾に出会った。三人は本堂に向けて歩き出した。三人は、観音堂から延々と続いていた石段を下り、あの不動明王のお堂のある池の日本橋を越えて、その先へと歩いてゆくのだった。ふたりは本堂に向かっているつもりで、まったく反対の方向に歩いてきていたのである。
その中途の山道で、三人の前にひとりの若い僧侶が立っているのが見えてきた。円悠だった。円悠は三人の姿をまじまじと見つめるとなにか深く考え込んでいる様子だった。
円悠は、修行中の身であるから、絶えずこの世の実相について考えている。
円悠の背後は道の突き当たりで、枝分かれした二つの道が左右に続いている。
「やあ、若いお坊さん。二本の道のうち、本堂があるのはどちらかな」
と胡麻博士が声をかける。円悠は胡麻博士の目をじっと見つめてから寂静の美しい声で、
「どちらにもありません」
と言い切った。
「なにっ!」
「その答えはまったくの「無」でありましょう。そもそも本堂に続く道など、二本の分かれ道のいずれにもありません。わたしたちの目には、道は二本しか続いていないように見えますが、道というものは本来、どこにも存在していて、また存在していないものでもあって、つまりそれは本来とらえようのないものですからね。形はないのですよ。ですから、その問い自体がそもそも「道」にとらわれているというものでしょう」
どうも仏教の問答が始まったような調子である。それに釣られて、胡麻博士が唸り声を上げる。
「ううむ。なるほど、それはたしかにそうだ。なかなか鋭いお坊さんだ。だが、まだお若い。二本の道にとらわれたくないのなら、二本の道の真ん中を通ったらどうかね」
「それも答えは「無」ですね。今度は中間という概念にとらわれてしまう……」
「やりおるな。しかし、そんな言葉を弄んでおるようではまだ頭が硬い方だわい」
祐介がふたりの世間離れした会話が盛り上がってくることに焦って、待ったをかける。
「先生。お坊さんとそんな問答をしている場合ではおりませんよ。本堂でお坊さんが待っているのですから。お坊さん、もう一度お尋ねしますが、この二本の道のどちらが本堂に通じている道ですか?」
「おわかりにならないなら答え方を変えましょう。あるといえばある、ないといえばない……。わたしの言葉を鵜呑みしているあなたがたは、わたしが「ある」といえば有の概念にとらわれ、わたしが「ない」といえば無の概念にとらわれるのですから、そのようなことであってはいつまで経っても本堂にたどり着くことはできません」
「いや、そうではなくて……」
祐介は自分までふたりの謎めいた問答に巻き込まれるのを嫌がった。
そこで胡麻博士が、祐介を制するように言った。
「羽黒君。つまりそもそも本堂とはなにかという根本的な問題に立ち返って、答えを突き止めなければ、そこに向かうための道などわかりっこないというものだ。そういうことだよ。羽黒君。そうでもせにゃ、この若いお坊さんを倒すことはなかなかできんわい」
と胡麻博士は首を傾げて考え込む。祐介は首を傾げる。そういうことなのか。本堂とはなにか、本堂とはないか。
「そもそも目的地である「本堂」すらもそもそも、あるようでもあり、ないようでもある仮相の存在だね。それはつまりこの世の存在というものがすべて、他の存在に起因する、因果が寄り集まって成り立っている「仮」の存在でしかないということさ。そういうものは因果がほどければ、たちまち崩壊する。つまりすべてのものは無常なものというわけさ。そういうものを、わしらはこの手でしっかり掴もうとしているために、このお坊さんに先ほどからやられているのだ……」
「しかし、だとすると本堂という概念は……。それは永続しないにせよ、ある時点においては、本堂は確かにあるわけでしょう。つまり、この二本の道のどちらかの先にはたしかに本堂というものがあるわけでしょう……」
と祐介は困惑しながらもとりあえず反論する。
「素晴らしいご指摘ですね。するとあなたはあくまでも本堂の概念を信じるというわけですね?」
と円悠が祐介に尋ねる。
「いえ、あの、正直どちらでもよいのですが……。待ち合わせの時刻はとうに過ぎていて、僕たちは二本の道のどちらに進めばよいのかわからないという現状を解決できさえすれば……」
「なるほど。あなたはどちらでもよいとおっしゃる自由人だ。それでよいというなら、お教えしましょう。本堂に続くのは右の道です。しかしこれだけは忘れないでいただきたい。右があるのは左があるからです。あなたは絶えず二つの道のいずれかということにとらわれているために、とても大切なものを見逃しているのかもしれません」
そう言うと円悠はその場を去っていった。




