26 観音堂の青年
石段を登るという行為に、祐介はあまり情緒を感じなかった。というのもこうして石段を登り、肉体の疲労が増してゆくにつれ、感性が鈍ってきているように感じたからだった。青々と茂る草、杉の大木、石段の中途で立ち止まって振り返ると先程立っていた山道はずっと下方にあって、とてつもなく細くなっている。普段の自分なら感動するような美しい光景。それなのに、自分は何も感じない。ただ冷たい空気が美味しく感じられる他にはなにもなかった。これというのもおそらく肉体の疲労のせいだろう、と祐介は思う。それなのに僧侶はなぜわざわざ苦行をするのだろう、その方が精神が磨かれるというのだろうか、と祐介は首を傾げる。空調の爽やかな部屋で、沈み込むようなソファーに座って、レモンが一切れのったアイスティーを飲んでいる状況では悟れないというのだろうか。胡麻博士に尋ねてもよいところなのだが、声を発することも躊躇するほど、実際、祐介は疲れていた。
「なんだね。ここは……」
ようやく石段を登り終えた胡麻博士が、痰が絡んだような苦しげな声で呟いた。
祐介も遅れて、石段を登り終えて前を見ると、八角形かどうかは正面から見てもよくわからないことであるが、上から見るとちょうどそのような形だろうと思わせるお堂が建っている。江戸時代くらいの建造物だろうと思わせる。正面には観音開きの大きな扉がついているのだが、今はぴったりと閉じられている。
入り口のところに白い貼り紙がついているので、胡麻博士が走って見にゆく。祐介もふらふらしながら後を追った。
「羽黒君」
「はい……」
「ここは観音堂らしいぞ」
「観音堂……?」
祐介は、はっとして観音堂の屋根を見上げる。ここはあの殺人事件が起こったという観音堂ではないだろうか。
「現在、観音様は、本堂横のお堂に移されて祀られているものらしい」
「すると、ここは例の……」
祐介はお堂のまわりを見まわす。お堂を中心として円を描いた広場で、木製の手すりはお堂から十メートルほど離れているところにある。足元には砂利が転がっている。木製の手すりの先は、杉の大木が続いている下りの斜面である。まさにここで殺人事件は起きたのだ。
祐介は、お堂の後ろ側がどうなっているか気になり、壁伝いに歩いてまわり込もうとした。そうして歩いてゆくと、お堂のちょうど真後ろに二十代くらいの若者が立ってお堂を眺めているのが見えた。若者は驚いて、祐介の顔を見つめた。祐介もそれにつられて、若者の顔を見たのでお互いに見合いになった。
若者の表情は、なにか困惑しているようだった。そしてわずかに眉が険しく寄せられているところから、今までなにか深刻な考え事をしていたことを窺わせた。さらりと黒髪が風に揺れていて、とても美しいその顔つきは、まず一流の美青年といって差し支えないものだろう。
祐介の背後から、胡麻博士が現れる。そして目の前の青年の顔を見ると、すぐになにか察した様子で、
「君。このお堂の観音様は今、本堂横に移されたらしいですぞ」
と言った。
「いえ、観音様に用があって来たわけではありません」
と青年は小さく具合の悪そうな声で言った。胡麻博士は、その言葉にえっと小さく驚きの声を漏らす。
「それでは、君は……。この六角堂そのものに用があって来たのかね。つまり寺社建築に関心があるということなのかね。これは感心だねぇ」
青年はなんと答えてよいのかわからない様子で胡麻博士の顔を見つめていたが、目を逸らすようにして悲しげに俯いた。その様子を見て、胡麻博士は気持ちを察したように頷く。
「悩んでいるのだな。卒業論文かなにかで困っているのだろう。きっとそうだろうな。なにかわしらに力になれることがあればよいが……。仏塔の歴史はもうよく理解できておるのだろうしなぁ」
「いえ、そういうわけではありません。卒業論文とか、そういうことではありません」
青年は慌てて、訂正する。そして再び悲しげな目つきでお堂の屋根を見上げる。
「数年前にこのお堂で大切な人を失いました。僕はこのお堂に今もあの人の魂が残っているような気がしてならなくて、こうして見つめていると不思議な気持ちになるんです。いえ、たった今、会ったばかりの人にこんなお話をしても仕方ないのですが……」
「ううむ。その話を聞くと、どうもわけありなようじゃな。どれ、羽黒君。わしらでこの青年の悲しみを癒やしあげたいと思いはせんかね」
祐介は、この青年の言っていることがどうも数年前の殺人事件と関連があるような気がしてならなかった。祐介は、腕組みをしてじっと青年の顔色を窺っている。そして祐介は息を決し、一歩前に足を踏み出すと、こう尋ねた。
「君、失礼かもしれないけれど、もしかしたら君の言っている大切な人というのは田崎弥生さんのことではありませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、青年の瞳の色が変わった。というのは、まるで静寂の湖に石を投じたかのような動揺が瞳の内側に生じたのだった。しかしその若々しい波はすぐに湖の静寂の中へと消えてゆくのだった。青年は悲しげな瞳で、祐介の顔をまじまじと見つめている。そして、ゆっくりと頷いたのだった。




