24 山の中で
バスから降りた羽黒祐介と胡麻博士は、白緑山寺の山門をくぐった。この先は、ひたすら山道の石段を登ることになる。ふたりは、白緑山の冷たい空気を吸っている。
インドの信仰が日本に伝来すると変質してしまったように、この山に漂う空気には、外来の神仏というよりも、どちらかといえば、日本古来の神々の霊気が宿っているように祐介には感じられた。
「数年前、この石段を登った少女が、観音堂で殺された。それが密室殺人であったとして、それと仏教がなにか関係あると思いますか?」
と祐介は胡麻博士に尋ねた。
「関係のないものなんてないさ。この世にあるすべてのものはどこかで関係しているというものだからね」
と胡麻博士は仏教的な回答をする。しかし祐介にはそれが仏教的かどうかもわからない。
祐介は東京の池袋の探偵事務所でのことを思い返す。数日前、突然、電話がかかってきて、やってきた二十代後半くらいの男性、病的なほど青白い顔色ですらりとした細長い、高身長の貴公子。彼は、田崎清司と名乗った。田崎清司は自分の妹が、白緑山寺の観音堂で殺されたことを祐介の前で朗々と語り(それは無感覚な印象すら与えた)、白緑山寺内に犯人がいると断言した。
(憶測にすぎない。しかし密室殺人というのは気になる……)
もしも、自分だけでこの白緑山寺に調査に乗り込もうとしたら、白緑山寺側に拒まれてしまうだろう。しかし、仏教民俗学者の胡麻博士の助手としてであれば、スムーズに寺内の調査を進めることも可能だ。
「おっ、この石仏は……」
胡麻博士は、山道が特別に幅広くなって、休憩用のベンチなどがおかれているところの左片隅の岩陰に石仏が彫られていることに気がついた。
「ちょっと見ていってもいい?」
と胡麻博士がちらりと物欲しげな目つきで祐介を見たので、祐介はぞっとして、
「どうぞどうぞ、ご勝手に……」
と言って、一歩遠ざかった。
胡麻博士は、その石仏を虫眼鏡で観察し、首から下げている大きなカメラで撮影をしている。
「これは気づかなかったな。千手観音だよ。ほら見たまえ。光背のところに細い腕が何本も彫り込んである。これはつまり千手観音だな」
「そうなのですね。でも、ここであまり時間をとられていると約束の時刻に遅れてしまいますよ」
「君は時間を気にしているようだ。羽黒君。君の想定する時間には、過去と現在と未来があって、未来と過去は膨張しているが、現在は刹那に過ぎゆくと思っているのだろう。君はそのうちの未来に気を取られて、今という瞬間の大切さを忘れているのだな。しかし、自分という視点に立ってみれば、過去も未来はどこにもなくて、永遠の現在しか体感されることはないのだよ」
「はあ。それだとつまり、約束の時間は……」
祐介はなんと答えてよいのかわからなくなり、呆然として千手観音の石仏を見つめた。
「胡麻博士の体感はその通りですが、現在、寺で待っているお坊さんと待ち合わせるためにも、どうにかして時間感覚をすり合わせなければなりませんからね。社会生活という観点からすると……」
「ここは白緑山寺じゃぞ!」
そういうと胡麻博士は唸り声を上げた。
「わしは千手観音と出会った。今という瞬間にだ。そして、この刹那にして、永遠の今にこそ、すべてが含まれているというもの。これが仏教の真理に他ならないのだ。わけがわからないかもしれないが、もう少し付き合ってくれたまえ」
ということで、ふたりは千手観音との刹那にして永遠の現在の出会いに感動をし、実際には祐介は感動に付き合わされた形で、二十分後にその場を後にした。
「どうも変な道ですね」
先ほどから山道には石段がなくなり、雑草が茂って、降ったり登ったりを繰り返しているので、祐介は奇妙に思って声を上げた。
「変ということは、その反対側には普通があるということか? この世のものはすべてそれぞれ異なっているというのに……。そもそも普通の道とは何だね。道はまっすぐ、石段は山上に向かわなければならないというのには、一体どういう根拠があるのかね?」
「い、いえ、そうではなくて、日頃、人が通っている気配がないのですよ」
「気配か。気配というのは、ひとつの霊感だね。全身の研ぎ澄まされた感覚とでも言えようか。気配が感じられないのは、もしかしたら霊感が鈍っているということじゃないかね?」
と胡麻博士は悩ましげに唸る。そういうことではないのだが、と祐介も困って首を傾げる。
「霊感というか……。雑草の状態を観察しますと……」
祐介はそう言いながら、雑草の中で立ち止まる。すると胡麻博士は鋭い声を張り上げる。
「立ち止まるな。立ち止まってはいけない。人間は歩き続けなければならない存在だ。縄文時代に土器を作っていた頃から、我々の先祖は道なき道を歩き続けてきたのだよ。そのおかげで、我々は今を生きれるというものなのだ。さあ、これからも前進しようじゃないかね」
「大丈夫ですかね」
「大丈夫かどうか? そんなことは知らん。ただ、わしにわかるのは懸命に今を生きるということなのだ……」
ふたりはこのように会話をしながら、ついに行き止まりにたどり着いてしまった。道は絶えて、目の前は崖である。白緑山の付近の山並みが見えている。天高く鳥が飛んでいる。とても美しく澄んだ色の青空が広々として、どこまでも続いているのだった。
「美しい……」
胡麻博士は呟くように言った。
「いや、あの、迷ってます」
「道には迷ったが、わしの心にもう迷いはない……」
「違う違う。胡麻博士。先生。あの、僕たちは完全に道に迷ってしまいました」
「迷わなければ出会えない景色もあるわい」
と胡麻博士は、感動に震えている目つきで、祐介を見つめてそう言った。




