23 羽黒祐介の仏教問答
羽黒祐介は、胡麻博士とふたりでバスに乗った。バスは山の上の方へ向かって、曲がりくねった道を登ってゆくのだった。この先にあるのは、白緑山寺である。
説明が遅くなってしまったが、羽黒祐介は東京の池袋に探偵事務所をかまえる私立探偵である。人類史上最高の美男子との呼び声も世間では高い。さらさらと風にそよぐ黒い前髪、憂いをたたえた吸い込まれそうな瞳、しゅっとした細い顎に、一文字に閉じられた唇。しかしそうしたパーツの美しさ、そしてそれらが織りなす全体の調和の美しさを超えて、奥深い精神性がその瞳から感じられるところが最大の魅力だった。
その祐介が、胡麻博士とふたりでこの白緑山に訪れたのは、先日舞い込んできた、ある奇妙な依頼によるものだった。
それは過去の事件の謎を解き明かせば、莫大な報酬を支払うという奇妙な依頼であった。
その事件というのが、白緑山で過去に起こったという、観音堂の密室殺人だった。
依頼人はその時に亡くなった少女の兄ということである。その人物は、自分の妹を殺したのはあの白緑山寺の僧侶の誰かではないかと疑っているらしい。
羽黒祐介は、仏教がらみの事件ということで、仏教民俗学者の胡麻博士に相談するため、電話をかけたところ、胡麻博士もかねてより白緑山寺の調査をしようと考えていたところだったので、ふたりの天才はこのように連れ立って白緑山寺に向かっているのだった。
「しかし、仏教というのは深淵な教えといいますが、僕のような縁もゆかりもない人間からすると、学ぼうとしてもどこから手をつけてよいのやら分かりませんね。そもそも、悟るというのはなにを悟るのでしょうね」
と祐介は仏教にまるで詳しくないから、胡麻博士にそんなことを尋ねる。必要な知識を持っていないために、事件を解決できなかったということがあると仕事上困るからでもある。
「悟るとはどういうことか。いい質問だがね、わたしに上手く答えられるかな。というのは、悟るものがなにか分かっていたら、すなわちその時点で悟っているわけだね」
と胡麻博士は白髪まじりの髭を動かしながら考える。
「しかし、まあ、悟るというのは体感するという言葉に近いだろうね。頭で理解しようとしてもできない、ある種の体感だね。つまりこの世のすべてのものは常に変化しているということ、この世のすべてのものは因果の寄せ集めにすぎないということ、自分や自分の感覚すらも刹那的なものであること、そういうことを体感する。そして、それに基づいて、自分というものがひどく曖昧になってくる。自我が滅される。心と体が自然と一体となるように、矛盾なく、とらわれのない状態となって、迷いもなく、ただ生きている。そういう状況にあるならば、それがすなわち悟るということだろうね」
「なるほど……」
祐介は胡麻博士が何を言っているのかわからなかったので、ひどく乾いた返事をした。
「理論はそういうわけさ。しかしね、こういう理論だけではどうにも悟れんのだ。心は理屈では動かんのだ。だから修行する。瞑想する。座禅をする。そうやって人は、他ならぬ自分自身から自由になろうとしているのだ」
とぼそぼそ言うと、胡麻博士は自分の頭を撫でている。
「自分自身から自由になるのですか……」
「そう」
「つまり、自分自身の感情から自由になるという……」
「感情だけではないね。たとえば、概念であるとか……。自我……。肉体……。そういうものから一切解き放たれようとするのは、古来より人間の求めるところではないかね。そうやって、人生の苦しみから逃れようとしたのが古代インド人なわけだね」
「しかし僕がその話を伺って違和感を抱くのは、自我や概念や感情を捨てたら、それはもう自分ではありませんよね。自由かもしれませんが、それはもう健全な状態とは言えないのじゃないでしょうか。第一それでどうやって主体的に生きてゆくことができるのでしょうか?」
と祐介が非常に悩ましいことをさらりと言ったところで、白緑山寺の五重塔が小さく見えてきた。
「たしかにこれは健全な状態とは言えないな。主体的に生きるということもできないだろうね。自我を脱して、一切の快楽を捨て去れば、それはすなわち、生きる喜びも捨て去るということだね。かつて釈迦が、人の喜びを求める心を捨てされば、もう苦しむことはないと説いたことがあったのだね。つまり喜びを求める心こそが煩悩なのだと。煩悩というのは苦しみの種というやつだ。しかし現在、たとえ喜びを求めない心を持ち合わせていたとしても、それはとても幸福な人生とは言えないものだろうね。つまり恋愛なんぞは真っ先に煩悩に区分されてしまうだろうからね」
「ええ。それにお釈迦様の説いたことというのは、僕はあまり詳しく知りませんが、ただ悟るというだけでは、肉体の苦しみから脱することはできないのじゃないでしょうか。つまり肉体が火に焼かれたら、当然、苦痛を感じますね。それすらも悟ることによって超越することは不可能ですよ」
「うむ。それはたしかにそうだね」
「ということは、つまり事故や病気の苦しみから逃れることはできないわけですね」
「ふむ」
「それにたとえ、自己が一切の概念から自由になって、ただひとり、概念にとらわれないで生きる、そんな自由人になれたとしても、社会は、つまり共同体というやつはある程度、価値観を共有しているわけですから、その社会においては評価されることも、理解されることもないわけですよね。たとえば、禅僧というのは、禅という巨大なバックボーンがあるので、そういうことがあるからこそ、孤高の自由人であって、奇妙な生き方をしていても認められるわけですね。しかし、そういうものを持たない個人の場合は当然、そういう評価は受けられない」
「それはまさしく君の言う通りだ。評価が必要ならば……」
「しかし他人からの評価というのは、自己満足に陥らないことを念頭におくならば、判断基準として最低限、考慮に入れるべきですよ」
「君の言うことはよくわかる。それは仏教がはらんでいる問題のひとつだ。しかし、君の今、語ったことというのは、多くの仏教を一緒くたにしている。わしが一緒くたに分かりづらく語ったせいでもあるのだが……。そもそも仏教というものは段階的に成長してゆくものであって、キリスト教のように聖書の段階で、すべて真理を語り尽くしているというものではない。はじめにインドにおいて、釈迦が語ったこと、これがすべてではない。仏教の担い手はこの二千五百年の月日の過ぎゆく間に無数にいたのだ。初期仏教が、段階的に成長してゆく中で、大乗仏教となり、般若経典が生まれた。そして浄土教や禅が生まれて、だんだんと巨大になっていったのだ。そしてそれらの教えが互いに矛盾していることはよくあるのだ。しかし、それらは異なる様相を持っていたとしても、あるひとつの方向に向かっているというのが仏教の見解だと思ってさしつかえない。そういう中で、釈迦がはじめに語ったことは人生の苦しみからとにかく解脱することだった。そのために喜びを求める心を捨てろと説いた。それでだね、その後に発展した大乗仏教というのは、もっと人間の生きる喜びを肯定する仏教なのだ。また、禅というのは、もっと自分自身のありのままの自由を手に入れようとするものなのだ。つまり、仏教というものは、歴史的な発展段階を考慮に入れなければ、解釈することはできないものなのだ。そして宗派というものが分かれて、異なる解釈を持っている。そうしたものをひとつの生命のように見てとって、本質を汲み取られなければ、なかなか呑み込むことができない代物なのだ」
胡麻博士も、仏教民俗学者であるので、祐介の追求になんとか答えようとする。
「それはよく分かります。聖書は、新訳と旧約のふた通りありますが、仏教の経典は、八万四千あるとかなんとか……。どこかで読んだ話でどこまで信用してよいのやら分かりませんが、それだけの教えがあるとして、その多くは、仏教の開祖であるお釈迦様が語ったこととはまったく違うことを書いていると。こうなってきますと、仏教というものは余計にわからなくなってきますが、たとえば、日本に伝来してくると、日本には日本の神の信仰がすでにありましたね」
「ふむ。その通りだね」
「先程、料理屋で胡麻博士がおっしゃっていたことですが、インド伝来の信仰が、日本の信仰と一体になると。つまり混ざってしまうわけですね。すると仏教というのはもうインドの仏教ではなくなる。でも、その中には、当然、中間地点である中国の信仰も含まれるわけでしょう?」
「まさにその通りだ。さては、わしの著作で予習してきたかな」
「いえ、そんなことはしていないのですが……。つまりそういう混沌としたものである仏教をどうとらえてよいものか、僕には見当がつかないわけですね」
「ふむ。それにそもそも仏教には、哲学的な側面と、民俗的な側面がある。これが矛盾することはよくある。多面的なものである仏教はつかみとりづらいが、我々に常になにか無数の問いを投げかけてくるという点では、巨大な神秘なのだな。とにかくこれは、二千五百年という間に、インドから中国、朝鮮半島、日本に生きた人々の精神と行動に関わる歴史的な運動でもある」
「問われているのは主に生きるということですか?」
「うむ。いずれにしても、これからゆく寺にはこういうことをよく考えている僧侶はいくらでもおる。学者であるわしよりも、仏道に生きるものに尋ねてみるとよいと思うぞ」
と胡麻博士が、わずかに羽黒祐介の質問を避けたところで、バスは山門に到着した。




