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1 胡麻楓

 夢学無岳様、成宮りん様、深森様から頂いた羽黒祐介の挿絵になります。※「名探偵 羽黒祐介の推理」「紫雲学園の殺人」「五色村の悲劇」より


 挿絵(By みてみん)


 挿絵(By みてみん)


 挿絵(By みてみん)


 本編は完全なフィクションであり、実在の団体や歴史、人物とは一切関係がありませんことをあらかじめご了承ください。

 昼下がりの喫茶店には客の姿がなく、宝石の光を彷彿とさせるジャズピアノの軽快な音色が、天井や棚の間を駆けめぐっていた。


 ウエイトレスの(かえで)はぼんやりとして、次にどのアルバムをかけるべきか考えていた。昼下がりのこの時刻まで、店主であるはずのマスターは自宅で寝坊をしているようだった。

(一体、アルバイトにどこまでまかせるつもりだろう……)

 そう思うと楓は、ふふっと微笑んだ。

(わたしにはジャズのアルバムなんて分からないけど……)

 マスターが好んでかけているアルバムはちゃんと覚えていたから、今のところどうにかなっているが、評論家気取りのジャズファンが来店して、レコードのリクエストなんてされたら楓は困ってしまうことだろう。

(このレコードいっぱいの棚から名前も知らない一枚のレコードを探し出せるはずがない……)


 暗めの茶色い家具で統一された店内には、琥珀色の照明器具が至る所から吊るされていて、星屑のようにともっている。

 壁側の棚には、ジャズのレコードのジャケットがぎっしりと詰まっていて、独特のほこり臭さを感じさせる。

 長方形の店内の一方には大きなスピーカーが二台並んでいて、澄み切った音を鳴らしている。そのもう一方には大きな長方形の窓がついていた。その窓の外には、寒々とした山並みが横たわり、その手前に灰色の建物がぎっしりと詰まって建ち並んでいる。


 ここは田舎にふっと湧き出たような街の中だ。


 ふらりと街に出て、デパートで買い物をするのもよいし、大学の図書館に行って勉強をするのもよい。なんでも自由にできる灰色の街の中で楓は快適な生活をしている。楓の現在のアルバイトはジャズ喫茶のウエイトレスで、風変わりなマスターとふたりで芸術家を気取っている。

 楓は文化的な香りのする現在の生活に満足している。


 窓の左隣には、木製の扉がついている。それがガタリと音を立てて開いた。ブラウン色のコートを着た細身で色白の青年が入っていた。

「いらっしゃいませ」

 楓は、普段と何も変わらない気持ちで、その青年の元へと向かった。

「お一人様ですか」

 と質問しかけたとき、楓は心臓がドキリとした。青年は楓の瞳を見ると、こくりと頷いた。青年の繊細そうな瞳がこちらをじっと見つめている。二秒ほどの沈黙が、楓の手足を痺れさせたようだった。楓は、その客から焦ったように視線を外すと、一番奥の広いテーブル席へと案内した。

 楓はカウンターの中にも戻ると、放心したようになって、しばらく動くことができなかった。気を取り直して、震える手で飲み水を用意しながら、遠巻きに青年の顔を窺った。二十代前半ぐらいだろうか。流れるようなさらさらの黒髪を右手でしきりに直している。一体、何をしている人だろうか。楓の頭の中でカチカチと時計の秒針のような音を立てて、なにかが動き始めていた。楓は気持ちの変化などかまわずに飲み水が入ったコップを掴んで、青年の元にささっと歩いて行った。

「ご注文はお決まりでしょうか」

「ブレンド……コーヒーを」

 青年はぼそりと言うと、楓の顔を見上げた。楓は再び、その青年の瞳に吸い込まれそうになって、思わず視線をテーブルの上に逃がすと、

「コーヒー……」

 とだけ、ぼそっと呟いて、ぎこちなくその場から逃げるように離れた。楓は自分の言動が恥ずかしくなって、急いでカウンターの中に隠れるように戻った。そしてその恥ずかしさから逃れようとするあまり、スピーカーの音量を思い切り上げた。

 唸るように宙に轟いているサックスの音色が大きくなって、店内を地震のように揺らしていた。繊細なリズム感で、跳ねるようなドラムの音が天井に伝わる。青年は不思議そうにぼんやりとそのスピーカーを見つめている。楓は、このままではまずいと思って、スピーカーの音量を下げた。


 楓は、ハンドドリップで手を震わしながらドバドバとコーヒーの粉に湯を注ぐと、おそらくは失敗作であろうそのコーヒーをもって、青年の前に現れた。青年はジャズに聴き入っているようでもあり、ただくつろいでいるだけのようにも楓には思えた。楓はコーヒーをテーブルの上に置くと、なにか会話のきっかけがあるものかと考えた。

 なにもなかった。ジャズの話をしようにも楓自身がまるで詳しくなかったので、切り出せないし、そもそもこの青年が話しかけてほしいかどうか分からない様子を前にすると、怖くて話しかけることなどできないというものだ。

 コーヒーを置いた後、楓はわずかな時間、その場にとどまったが、なにも生まれなかったので、すぐにカウンターの奥にさささっと小走りで戻る。


 青年は、文庫本を取り出して、静かにそれを読んでいた。楓はカウンターの奥からその青年の顔をじっと窺っている。一体、何の本を読んでいるのだろう。


 楓は大学生である。この付近にある大学に自転車で通っていて、日本史を専攻しており、今はモダンなアパートで友達と二人暮らしをしている。ここは栃木県の端っこで、デパートや商店街もあるなかなかの都会であるが、近くには白緑山(びゃくろくさん)という神仏習合の霊場や温泉がある全国有数の観光地でもある。

 白緑山という霊山には寺院もあれば、神社もある。お寺の方は、白緑山寺(びゃくろくさんじ)という寺号である。

 白緑(びゃくろく)というのは、淡い緑色のことで、孔雀石を砕いてつくる貴重な色合いなのだとか。

 ところがそんなことは今、楓の興味にはない。


 一時間ほどして、青年はおもむろに立ち上がった。脱いでいたコートを羽織り、鞄から財布を取り出しながら、楓のもとへと歩いてくる。

(帰ってしまう……!)

 楓はわずかに寂しさを覚えながら、青年とカウンター越しに向かい合った。青年は紙に記されている通りのお金を払うと楓の瞳をもう一度、ちらりと覗き込んだ。楓は、舌がもたつくのを感じながら、

「またいらっしゃってください」

 と言った。わずかに声がうわずって不自然に響いた。それに青年が気づいたかどうかはわからなかったが、彼はにこりと笑うと、会釈をして踵を返した。木製のドアは優しく閉じられたようだった。


 生命感に満ち溢れていて騒々しいはずのジャズが、今では完全に力を失ってしまったように店内に虚しく響いていた。昼下がりの明るさが舞い上がる埃を白く浮かび上がらせている。

 楓はカウンターの中で、青年の顔を繰り返し思い出してはあれこれ考え込んだ。

(また来てくれるかな)

 楓は、そわそわしながら、青年のいたテーブル席に片付けに向かうと、椅子の上に一冊の文庫本が残されていることに気がついた。楓は、あっと小さく呟いて、その文庫本を手に取った。青年の温もりが残っている気がした。

 ところがそれは楓にはよく見慣れた本であった。

 その文庫本は紺色の表紙に、縦書きのタイトルが印字されている。タイトルは『神仏習合の霊場6』で、作者は胡麻零士と記されている。

(お父さんの本だ……)

 

 胡麻零士は楓の父親の名前だった。東京の天正院大学で仏教民俗学の教授をしている。その父親の著書を何故、先ほどの青年が読んでいたのか。楓はその文庫本を裏返して、もう一度、あっと叫んだ。

 これはどうやら自分の通っている大学の図書館のものであるらしい。

(ということはあの人は……)

 楓は脱力したように、青年の座っていた椅子に座り込んだ。楓の中でなにかが動き始めている。楓はテーブルに突っ伏すようにして、文庫本だけを立てて眺めていた。


(また会えるかな……)

 楓は、トイレへと向かった。用を済ませてから、鏡を前にして、自分の顔をまじまじと見つめた。浮腫んでいる様子はなかった。それだけでなく、楓は自分の大きな瞳が生命感をもって輝きだしていることに気がついて微笑んだのだった……。

 挿絵(By みてみん)


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