16 観音堂の殺人事件
三人は本堂から出て、広々とした砂利道を歩いて、観音堂のあるところまで来た。ここからは、このあたりの山並みや彼方に広がる街並みを一度に見下ろすことができる。楓やのぞみの通う、白緑山大学の校舎も小さく見えていた。
観音堂は八角形の建物で、屋根瓦の笠をかぶったようなその外見は、法隆寺の夢殿を思わせるものだった。
観音堂の隣の展望台があり、望遠鏡が設置されているのを見て、楓は、
「あー、景色見ようよ!」
と言って望遠鏡に近づこうとした。
「その望遠鏡は壊れています」
と円悠がすかさず言ったので、楓はさもつまらなそうな顔をした。
「しかし、壊れていてもそれは望遠鏡なのです」
と円悠はしみじみと語った。
「望遠鏡には、始まりもなければ、終わりもありません。望遠鏡として存在することができたのはまさに縁の巡り合わせでありました。しかし、望遠鏡は壊れてしまった。それでも、望遠鏡は望遠鏡なのです」
そう言うと円悠は、のぞみの方を向き、
「そう思うでしょう。森永さん」
と言ったので、のぞみはなんと答えてよいか分からず首を傾げた。
「この世のものには始まりも終わりもない。この世のものはすべて、色々なものがめぐりめぐった結果、仮に存在しているにすぎません。レンズをのぞくと、あの建物の細かいところまで見えるうちは、人はそれを望遠鏡と呼びます。そして壊れてしまえばそれはもう望遠鏡ではない。人の世においてはそういうものです。しかし、望遠鏡ではないそれは同時に、壊れてしまっていたとしてもやはり望遠鏡に他ならないのです。つまり存在というものは、存在していると同時に存在していない。この世においてはすべてが仮の存在……」
円悠はそう言いながら、だんだん物憂くなってきたらしく、近くにあったベンチに座り込んだ。
「すべてが仮の存在であるならば……月日が過ぎ、雨風に打たれれば……どうせ、何もなくなってしまうと分かっているのならば……なんのために我々は生きているのか……」
楓は、その苦悩する若い僧侶の様子をまじまじと見つめて言った。
「恋をすればいいんですよ」
「なんと……」
円悠は顔を上げた。
「恋をすればね、もう、なんでもよくなっちゃうの」
楓は、ふふっと笑っている。
「恋をすれば、どんなに汚い路地裏にも薔薇が咲きますよ。目刺しを食べたって鯛の味がするんです。冷たいそよ風もミントの香りがするというものなんですよ」
「それは一時的な夢です。恋をすると、その気持ちが永遠に続くかと思う錯覚を起こすのです。しかし変転する心はとどまるところを知らない。流れゆく川の水を素手で掴むことができますか。まさに心は無常というもの」
「そんなことありません!」
楓は調子づいてきて、展望台の手すりに手を置くと、
「わたしたちの恋は永遠です。この大地が生まれる前から続いていた運命です。そしてこの大地がたとえなくなって、宇宙空間だけが残ったとしても、わたしの心は結ばれたままなんです!」
円悠の前で、自分の恋について語り始めたのだった。
「瞳が合ったのは、心が出会ったということ。見つめあったあの時、あのお方はわたしの心の中にお邪魔されたわけです。ところが、わたしもあのお方の心の中にお邪魔していたわけですね。そうやって、わたしたちは恋をしていることを知るのです」
円悠が何か言おうとすると、楓はオーバーな身ぶりでそれを制して、恋愛の素晴らしさを語るのだった。
のぞみは、こんなハイテンションな楓を今まで見たことがなかったので、呆気に取られてしまった。
「円悠さんに良い出会いがあるように……」
と言って、楓が合掌をしたので、円悠はお辞儀をした。
「良いお言葉を沢山聞かせていただきました。わたしに恋は難しいかもしれませんが、胡麻さんの弾んだお声を聞いているうち、あまり悲観的にとらえても仕方ないと思うようになりました。わたしの心に浮かんでいた黒雲は消え去り、今、日の光が大地を照らしているようです」
そう言って、円悠は合掌すると、ふたりを観音堂に案内した。
観音堂に入ると、二メートルほどの高さの十一面観音像が立っていた。黒ずんでいて、すらりと細長い体の観音像である。頭部には、十の小さな顔がのっていて、その十の面はぐるりと周囲を眺めているようである。この十の面があるせいで、観音像は王冠でも被っているように見える。右手に蓮華の飛び出た水瓶を握り、左手は印を結んでいる。
「十一面観音様です」
と円悠は言った。
「意外と建物は新しいんですね」
と楓がまた、仏像と関係のない感想を述べた。
すると円悠は、なにか意味ありげな表情を浮かべて、ちらりと楓の方を見た。
「これには複雑なわけがあります。本来の観音堂は、江戸時代から続く歴史的な建造物で、もっとずっと山の中にあったのですが、数年前にそのお堂で殺人事件が起こりまして……」
「殺人事件……?」
楓はびっくりしてわずかに跳んだ。
「ええ、不吉だということでここに観音様を移動することになったんです」
のぞみも、そんな話は今まで聞いたことがなかった。円悠はふたりの顔色が変わったのを見て、
「すみません。こんな話をしてしまって……」
と反省をしたものらしく、深々とお辞儀をした。




