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149 念仏

 その時、のぞみが口を開いた。

「確かにその通りです。日本の信仰において、生と死は分け隔てることなどできないものなのかもしれません。それでも、わたしは相馬先生が固執した死後の世界への憧憬に深く共感してしまいます。相馬先生にはユートピアが必要だったんです。この現実世界……。現象世界はやはり醜くて苦しいもの。厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)。醜くて苦しいこの世を離れて、清らかな浄土を求める。それだけが海難事故のトラウマを背負った相馬先生には心の救いだったのではないでしょうか……。わたしもそういうところがあります。自意識の苦しみから、いつでも心のどこかで美しい異界に転生することを望んでいるんです……」

 のぞみがそう語ったのは、いくら密教の森羅万象の自己の一体の真理に感動して悟った気になっていても、相馬先生を批判する言葉を聞いているうちに、ふつふつと湧き上がってくる心の叫びがあったからである。自分はやはり浄土信仰に心酔していたのだと直感したのであった。


「魂が彷徨うこの世に生と死は混在していると思います。それでもわたしは美しい極楽浄土に憧れを抱いてしまう。相馬先生は阿弥陀如来の来迎を目にして亡くなりました。わたしはそれを羨ましい気がしました。わたしが死ぬ時もそんな光景が拡がるだろうか、と思いました。相馬先生は、死に取り憑かれていたのではなく、ただ心が安らかであることを求めていたのでしょう。相馬先生は旅立ちました。わたしは不謹慎かもしれませんが、その心に共感してしまいます……」

「ふむ。君も言うことももっともだ。相馬先生は死にとらわれていたわけでない。ただ心が安らかになることを願っていたのだ……」

 胡麻博士は少し控えめな口調であった。これに対して円悠が語ったところによると……。


「問題は、阿弥陀の慈悲というところでしょう。相馬先生にとって穢土(えど)に過ぎなかったこの苦しみの現世。縁起説をとれば、すべての事象は、縁によって起こるのみで無実体・無本性の虚無の世界に過ぎません。だから相馬先生はそういう無常の世の中で生きていました。さらに、すべてのものは、己の心が映し出したという世界なのです。醜い苦しみの対象、主観に対する客観存在を相馬先生の深層心は、生み出し続けていたのです。

 相馬先生が未来にあると予感して、恐れていた無間地獄とはその実、彼が生きているこの苦しい現世のことに他ならなかったのです。

 縁起に対する存在論として、華厳思想に性起(しょうき)という説があります。この世のものはすべて、仏の慈悲心の働きで起こっているというものです。この慈悲心の働きこそ、森羅万象を隈なく照らし出す生命礼賛の妙光に他なりません。しかしそれを直感するには深層心を浄化しなければなりません。その深層心の汚れなき本来の状態こそが、自性清浄心じしょうしょうじょうしんというものではないですか。すべての事象はこの心によって認識され、生み出されるべきなのです。その時、世界はありのままで、浄土のように美しく照らし出されるのです」

 円悠はそう言うと胡麻博士は、それもそうだなと思った様子であった。順番的に羽黒祐介もなにか言わなければならない流れとなって、三人はちらりと祐介の顔を見つめていた。


「ええ。皆さんのおっしゃる通りです。相馬先生は、苦しんでいらっしゃった。そこからの解放ですね。彼は彼独特の宗教観であったことでしょう。ですから専門家でいらっしゃる皆さんの視点からみれば、さぞ納得のゆかぬこと、ご批判もおありだと思います。しかし、そうは言っても、もう亡くなってしまった方です。心からお葬式をなさってください。ええ……」

「その通りだ。羽黒君の言う通りだよ。彼はもう死者だ。彼の魂が荒れたまま彷徨い、怨霊にならぬよう手厚く供養をすることが我々の務めではないかね。わしは信仰の起源から彼の宗教観を批判した。森永君は浄土信仰の観点から彼に同情した。円悠君は、仏教思想の崇高な理想を物語った。しかし今から我々が本当にできることは彼の魂を供養することだな。さあ、立ち上がろう。彼は阿弥陀の来迎を迎えたのだ……。彼が成仏することをお祈りするのだな……」

 胡麻博士はそう言うと合掌した。一同はその説得力のある言葉に、息を整えて、皆静かにその場で合掌した。


「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

 地を這うような声で胡麻博士が、しっかりと念仏を十遍唱えると、隙間風もないのに、慈覚大師円仁と勝道上人の壇から線香の甘い香りが漂ってきた。

 羽黒祐介は、一千年の歴史の重さに同化してゆく相馬の魂のことを思った。彼の魂は今どこにあるのだろう。そんなことは誰にもわからないに違いない。ただ白緑山の美しい山並みを見る度に、彼の寂しい生涯を思い出すだろうと祐介は思った。

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