148 生死の信仰
「真理は言葉や概念を離れている……。同時に相馬先生の根源的な不安も、言葉や概念を離れていて、説得しても取り除くことができないものだったのです。彼の不安を断絶することができるのはただひたすらに自身の体験だけです。自身の体験だけが彼の深層心に釘を打つことができるのです。その体験こそ、あの観音堂に仏像が出現するという奇跡に他ならなかったのです。
法導和尚の考え方はこうです。相馬先生が悪戯に殺人を積み重ねているのは「観音の神通力に対する不信」にあります。その不信を打ち砕くことが必要だったのです。
死体や仏像を運ぶのには、コートを回収しに来たことから、松倉正善の協力があったのでしょう」
「見事だ。仏教に詳しくないのによくそこまで推理をしたね。これで辻褄が合うな。結局、日本人にとって宗教とは「呪術」であり「奇跡」でしかない。文明が進むにつれ、その原始的本意を失い、宗教の道徳化が進んだのだ。相馬先生の深層心に打ち付けられる釘とはまさにこの「呪術性」であったことだろう……。妙技だ……」
胡麻博士は感銘を受けたものらしく、深々と頷く。しかし円悠は納得がゆかずに首を横に振る。
「わたしはそう思いません。結局、それだけのことでは相馬先生は個我のうちから一歩も出ていません。補陀落山への往生の保証も、彼の個我から発生する不安な感情を、根本から能断したわけではありません。個人の幻想の中で生き、そして死んでゆく、輪廻転生の業から脱したわけではないではありませんか……」
「それは確かにそうだ。彼は自己の業から解脱したわけではない。彼は大悪人としてその生涯を真っ当したのだ。しかし結果として彼は、阿弥陀の来迎を目の当たりにした。自分が忌み嫌っていた阿弥陀の慈悲の絶対性を悟って死んでいったのだ。彼にとっての救済はこのようなものであった。彼が、自己よりも巨大な慈悲を体感したのは、このような形であった。ある人はこれを幻のようなものだと喩えるかもしれない。あるいは夢のようなものだと……。掴もうとすればそこには何もなくて消えてしまう……。しかしこの世のありとあらゆるものは心の投影であって、自己の心を離れて、ものを認識することはできない。永久の夢幻の中に我々は生きているのだ。彼は直感した。阿弥陀の慈悲を。彼以上に巨大な慈悲を直感した人間がこの世にいるであろうか……?」
胡麻博士がそう語って頷くと、一同は反論することもなく、ただ静かに佇むばかりであった。
「あとは強盗団のグループが捕まるかだか……これはもはや時間の問題であろう。しかし強盗団は、どうして森永君を殺そうとしていたのだろう……。君は一体どんな証拠を握っているのかね……」
森永のぞみはそう言われて、浅草で襲われた時のことを恐る恐る思い返した。そしてすぐになにか記されている「白い紙」を拾ったことを思い出した。よく考えるとそれは浅草ではなく、その前の博物館内で拾ったものだった。それは忘れられて今でも彼女の財布の中にしまわれていた。のぞみは財布を取り出すと、その中からその紙を一枚摘み出した。
「これ……」
羽黒祐介はそれを受け取り、開いて見ると、それは綺麗に折り畳まれたATMでの振込のご利用明細書であった。お客様番号など、多くの数字が伏字になっていて、果たしてこれを調べると犯人の身元が割れるのかは不明であったが、これを博物館内で落としたことに気が付いた犯人グループは相当焦ったものらしい。森永のぞみが拾ったことに気がついた犯人グループは、これを秘密裏に回収するか、これを拾ったことを唯一知っている森永のぞみ本人を抹殺してしまうか、方法はふたつにひとつであったはずだ。
「振込の時間が記入されているから、支店が分かれば、防犯カメラの映像などでも犯人を特定できるものかもしれない。ただ、いずれにしても犯人グループは今や、袋の鼠だ。おそらく夜明けまでにはかたがつくだろう……」
胡麻博士はそう言うと、仏堂から窓の外を見た。程近いところで銃声が響き渡っていたからである。それもすぐに止んでしまうと山を死の静寂が包み込んだ。まったく恐ろしい沈黙の時間であった。胡麻博士は重い口を開いた。
「死があって生がある。生があって死がある。死と生が共存している。それが日本の信仰というものだ。肉体と魂とが分離することを死と名付けたならば、我々の住むこの世界にこそ、生があり、死があるというものだ。そのため山中他界があり、海洋他界があるとされたのだ。相馬先生は死の観念にばかり取り憑かれていた。そして強烈な自我心をもって、その観念を迎え入れ、弄んでいたのだ。
日本の信仰の起源とは、自然と生産手段の関係にこそあった。火雷豪雨や水源、そしてそれによって育まれる稲が生命の象徴であった。生命の礼賛と死者の供養とが信仰の両輪であった。
相馬先生は死を賛美し、生を忌み嫌った。死と生が二元的対立を描き出した世界の中で彼は生きていて、彼はその本質を見誤ってしまったのだろう……」




