144 不審な僧侶
この五重塔は、新観音堂と旧観音堂を結ぶ道のちょうど中間地点にある。胡麻博士と羽黒祐介が道に迷った時に目印としたのも実にこの江戸時代建立の五重塔であった。
時間の経過と共に、屋根瓦を伝う雨音が静かになってくる。気がつけば、もう降りやんだのではないかという気もしてくる。楓は、冷たい風が隙間から吹き込む中で、慎吾と肩を寄せ合って座っているこの時間が永遠に続けばいいのに、と願う気持ちが裏切られて、残念に思えていた。
(わたしからも自分の気持ちを伝えないと……)
楓がそう思って、うう、とか、ああ、とかひとり言葉にもならないことを呟いていると、慎吾ははっと立ち上がって、窓の外の様子をうかがった。
「誰か歩いてくる……」
と慎吾は囁くように言ったので、楓は驚いて「えっ」と呟くと、慎吾の横に立って、窓の外の様子を見た。
しばらくして、松倉正善という太った中年の僧侶が、のそりのそりと熊のような足取りで、周囲を気にしながら、こちらに向かって歩いてきているのが楓の目にも見えた。
「誰……」
「彼はこの寺の僧侶の松倉正善です」
「犯人かな……」
「でも、おかしいな。彼に人殺しをするような度胸はないはずだけど……」
ふたりは懐中電灯を消して、五重塔に入ってくる松倉正善の姿を影から見守っていた。
松倉正善は、五重塔に入ると足跡を辿るようにして、あのコートの元へと歩いていった。そして拾い上げると、それを折り畳んで引き返そうとした。
その時、慎吾が懐中電灯の明かりをつけて、正善の顔を一気に照らし出した。
「うわっ」
正善は驚いて、コートを床に投げ捨てると、転倒しそうになりながら、大慌てで五重塔から駆け出していった。ふたりはその後を追いかけたが、正善は疾走する馬のような勢いで、山道の奥へとあっという間に消えてゆくのであった。
「彼はコートの存在をはじめから知っていた……。五重塔に入ってからも、他のものに視線が散ることもなかった。そしてコートを手にした時も、何の驚きも生じていなかった……。このことを一刻も早く、羽黒さんに伝えようと思う……」
慎吾はそう言うと、コートを手にして、雨の止んだ山道を観音堂の方へと戻っていった。楓はその背中を追いかけてゆく。ふたりが突き進んでゆく道の先には、白緑山の奥の院があり、信仰の起源である石の塚がある。一千年の月日が夜の闇にまぎれている。雨の降り止んだ夜空は、とても静かであった。無数の魂が眠る白緑山の土は今、潤っている。ふたりはその上に小さな足跡を残していった。
「僕が調べた情報によると、弥生の死体をはじめに発見した旅行者というのは、山の中を遭難していたらしい。そして観音堂のあるところに辿り着いて、周囲の雪に足跡がついていないことを確認した上で、中に入ったら、女性の死体が横たわっていたと……。そして堂内には観音像があったというんだ」
「うん……」
「同じ頃、東京の上野の美術館で、白緑山の仏像を展示している。寺から持ち出されたのは、薬師堂の薬師如来と脇侍の月光菩薩だった」
「薬師堂……?」
「そして、死体を発見した旅行者について調べてゆくと、ある事実がわかった。彼には色覚障害があったんだ……」
「色覚障害って、色盲ってこと……?」
現在では「盲」という字への配慮から、色覚障害や色覚異常と表現することが多くなったらしい。
「どうも僕の推理が正しければ、観音堂のまわりに足跡がなかったのは……」
道の中途で立ち止まった慎吾と楓のふたり、天から見下ろすとヒトデ型、五つに道が分かれているところの目の前に立っていた。
「こちらにゆけば観音堂、しかしこちらにゆけば薬師堂だ……」
「まさか、慎吾の推理って……。でもそんなの辻褄が合わないよ……。だって、旅行者が入ったお堂には女性の死体が倒れていたのでしょう?」
「うん。そのことも含めて、羽黒さんにお伝えしないと……」
慎吾はそう言うと、奥の院へと通じる道を突き進んでいった。今まさに奥の院周辺では、山中他界の鬼の如き強盗グループに対し、警察による捕物が繰り広げられていることだろう。魑魅魍魎の巣食う山の中は今、一面に塗りたくられた墨の色をしていた。雷雨の通り過ぎた後のことで、もう鬼火の群行も絶えて、山中他界は不気味な静寂に包まれている。




