143 五重塔のふたり
柿崎慎吾と胡麻楓のふたりは、旧観音堂から僧坊へと引き上げる中途の山道で、突然、雷鳴と共に降り出した雨のために、五重塔の軒下へと隠れた。雨は屋根瓦を伝って、ふたりの足元に落ちていた。風が強くなってくる一方で、軒先の屋根の下にいても、横殴りの雨に、服が濡れてしまいそうだった。
「仕方ない。この中へ入ろう……」
五重塔は普段、施錠されていて堂内に入ることができないのだが、この時ばかりは何故か、観音扉に何もついていなかった。どうしてなのか。そんなことはふたりには当然、わからない事実であった。ふたりは暗い堂内に足を踏み入れる。
慎吾は、懐中電灯で堂内の様子を見る。仏像のようなものが見えるが……。よく見てみると、床には埃を踏み締めたものらしき靴跡が奥へと続いている。
「これは……」
楓は、慎吾と二人っきりのこの状況に、激しく胸がときめいていた。緊張のあまり、全身がこわばって、姿勢よく彼の隣に立っているのもやっとのことであった。それと共に、楓は、この山奥で激しい雷雨に木造の五重塔の壁がバタバタと嫌な音を立てて揺れているのが、今にも崩落しそうに思えて恐ろしかった。緊張と不安の双方が入り混じった楓は、茫然と入り口で立ち尽くしていた。
楓が震えていると、何の前触れもなく、慎吾がそっと手を掴んできたので、うわっと大声を上げてしまった。
「すみません。脅かすつもりはありませんでした。こちらに……」
ふたりは互いに引き寄せあって、闇の中を進み、奥の床の靴跡の前にしゃがみこんだ。
「この靴跡は真新しいものです。そしてその先に、女性もののコートが……」
楓が言われてよくみてみると、確かに女性もののコートが埃まみれの床に転がっている。埃まみれの床に上にありながら、コートの上に埃が少しも積もっていないところを見ると、どうもここに置かれたのはごく最近のことらしい。
「このコートに見覚えは……?」
慎吾の瞳を間近に見て、楓は頭が一瞬真っ白になったが、すぐに我に戻って、首を横に振ると、
「咲のコート……」
「そうでしょう。実は僕もそうではないかと考えていたのです。吉田咲さんのご遺体は冬の山に訪れたものにしては、ひどく軽装でした。おそらく吉田咲さんは、上着を犯人に剥ぎ取られたか、上着を着ていない時に殺されたかのいずれかでしょう……」
「そんな……」
「いずれにしても、この五重塔の中にこのコートを隠したのは犯人でしょう。しかし犯人はどうしてそんなことをしたのか。おそらくコートに自分の指紋や毛髪がついたのではないかと考えて、剥ぎ取ってここに一時的に隠したのでしょう。
この五重塔は普段、入り口に南京錠がつけられ、施錠されていたはずです。それが今では、その南京錠が跡形もない。犯人は、どういうわけか、南京錠を外して、ここに被害者のコートを隠したのです。そんなことができるのは寺の関係者しかいない。相馬先生には到底、できないことではないですか……」
「し、慎吾……。それってもしかして……」
楓がうっかり興奮のあまり、慎吾の名前を呼び捨てにしてしまったので、慎吾も一瞬、戸惑ったような様子であった。
「相馬先生が、身の覚えがなくて観音の神変だと言っていた第三の事件の真犯人は、お寺の関係者だったということなの……」
「その可能性は非常に高いと思います……。だって、この五重塔の南京錠を外せる人物なんてそういませんもの。それにお寺の関係者じゃなければ、こんな証拠品は、五重塔の中になんか隠さずに、そのまま山にでも埋めた方が得策でしょう」
「お寺の関係者に濡れ衣を着せるために、あえて犯人がこのコートを五重塔に隠したという可能性は……?」
「それならば、このコートが吉田咲さんの持ち物であったことをもっと発見者に分かりやすくするはずです。このコートには名前も何もついていない。これでは見つかったとしても闇に葬られてしまう。あの被害者の鞄の中にあった学生証を入れるなど、いくらでも方法があったはずです。この証拠品からは、目立とうという意思がまったく感じられない」
「そう……」
楓は、慎吾の言うことはもっともだと思った。しかしそうだとすると、吉田咲を殺したのは誰だろう。白緑山寺の関係者だというけれど……。
ふたりは話し終えると、自分たちではこれ以上どうすることもできないので、五重塔の床に腰かけて、窓の枠に打ち付ける雨の雫を眺めているばかりだった。そのうちに、三十分あまりが経った。いつの間にか、雷鳴も止んで、堂内には雨音ばかりが忍び込んで、虚しく響いていた。
ふたりの距離は、次第に縮まってきているようだった。
「慎吾……」
楓は、そう声に出してふと横を見る。呼びかけられて自分を見る慎吾の顔を見ると、事件の真相など一瞬、どうでもよくなった。今、慎吾とふたりきりでいるということが恋愛至上主義者の楓にとってはもっとも大事なことなのだ。
(わたしは事件なんてどうだっていいんだ……だけど……)
楓にはひとつ気になっていることがあった。
「慎吾は、田崎弥生さんのこと、まだ……」
もう亡くなった人物だけれど、慎吾の胸中でまだ田崎弥生という存在が生きているように思えて、楓はそれがふたりの恋の障害になる気がして、不安でならなかった。
「いえ……」
慎吾は戸惑いながら答えた。
「僕は彼女の供養ができればそれでいいんだよ。胸の底にあの人の面影が残り続けることはこれからも変わらない気がする。でも、その意味合いはきっと変わってゆくと思う。僕は彼女のことを思い返す度、すべての景色が悲しみに彩られてしまっていた。それでいいと思っていた。ずっとこのまま、背負って生きていこうと思っていた。でも、僕の中で、なにかが変わり始めた。過ぎ去った日には大切な意味があると思う。それでも、彼女との日々は、夏になって青空の中に立ち昇った雲の影を見ている時とかに、ふとそんなことあったなって思う時もあるんだろうけど、思い出すことはだんだんと減ってゆくんだろうな……」
「それで本当にいいの。慎吾は……」
楓は、慎吾の顔をじっと見つめた。もしも慎吾の気持ちを優先するのならば、わたしはどうすべきかと悩んだ。自分が割って入ってよい問題ではない気がした。慎吾は、今までずっと田崎弥生のために生きてきたのだ。たとえそれが亡くなっている方だったとしても、それは大切な存在に違いない。それをわたしはどう受け止めればよいのだろう。楓の震えている瞳が今、慎吾の言葉を待っていた。
「いいんだよ。僕は未来に向かって生きていきたいんだ。君と出会って、そう思えたんだよ……」
慎吾はそう言うと、楓の方をそっと見つめた。彼も怯えている、不安そうな表情であった。ふたりの手が再び重なり合う。冷たい指先が触れ合った。お互いの戸惑いがしっかりと伝わる指先だった。
次第に勢いが弱まりつつある雨は、まだ堂内にその物音を響かせていた……。




