136 阿弥陀如来の救済
「実に驚くべき推理ですね。しかしこの「奈良元興寺の智光・頼光。頼光のように智光の生まれたるところを知ろうとしてもいまだに叶いません」という文章は、さすがに胡麻博士とはいえ、説明できないでしょう」
と羽黒祐介は、胡麻博士を挑発する。
「奈良元興寺の智光・頼光というのは、かつてそういう僧侶がいて、浄土に往生した話が『今昔物語集』に出てくるのだ。頼光が死亡した後に、智光が「頼光の生れたらむ所を知らむ」と二、三ヶ月に渡り、祈念していると果たして、夢に現れた。それはまさに浄土に往生している頼光の姿であった。
さて、古くより冥界と現世とは、夢を媒介として繋がるものであった。夢のお告げというやつだ。華厳宗の名僧、明恵上人が四十年に渡り、自分の夢を記録したという『夢記』は特に有名である。
相馬先生もまた、夢の中で、田崎弥生が補陀落浄土に往生したという証拠を得ようとしていた。そのために毎晩、祈念していたことだろう。そしてそれは二、三ヶ月という短い月日では決してない。彼は今に至るまで、ずっとその夢を見ようとして祈念していたのだろう。無間地獄に落ちることを恐れている彼の姿を見ると、どうもそのありがたい「夢のお告げ」はいまだに彼の前に立ち現れていないのだろう。もし彼の夢中に、補陀落浄土に渡った田崎弥生の姿が現れたなら、彼は無間地獄の恐怖を取り払うことができているはずだ……」
羽黒祐介は、なるほど、と思いながら胡麻博士の推理をじっくりと聞いていた。すると、相馬先生はありとあらゆる夢のお告げのための祈念法を試してみたことだろう。彼の心中は、「夢」の一文字に取り憑かれたようになって、もしも反対に「無間地獄の夢」でも見ようものなら、錯乱してしまうことだろう。
「これで、相馬先生の遺書の大部分の意味合いが分かりましたね。最後の「唵摩訶迦嚕尼迦娑縛訶」は、十一面観音の真言ですね。残された問題は、彼がつまり、神変を体験したというところです。彼は、足跡のない観音堂の噂を耳にして、観音の神変だと思ったのです。そして第三の殺人を見て、やはり観音の神変だと思って恐怖心から錯乱し、森永のぞみさんに罪の告白をしようと思い立ったのでしょう。そして観音の神変が起こったのだから、これは「観音の呪力の効用の証明、五逆の罪消滅必定の証拠が現れたのだ」と思って、観音堂へと向かったのでしょう。そして心真言を唱えてこの山中他界で自殺しようとしているのでしょう」
羽黒祐介はそう言いながら、そうすると雪の密室殺人と第三の殺人の謎が残ってしまうな、と思った。
「相馬先生は、実に見事な論理を作り上げたが、それらはすべて経典や習俗の曲解だ。相馬先生は、サスケフラワー号の海難事故による父母の死から目を背けたいという気持ちを根本にして、経典や習俗を、手前勝手に、自己の思想に取り入れているに過ぎない。そこには彼の自我心があるのだよ。そうではなくて、仏教というものは、自己の心の根本、自性清浄心から仏法を紐解かねばならない。それは空寂というものだ。自我が滅却された無我の心こそ、無為の境地こそが、思想の根本であるべきなのだ」
と胡麻博士は、松明のゆらめきを見つめながら言った。
「それは確かにその通りだと思います。恐ろしいことに、彼は「五逆の罪を犯し、無間地獄に落ちることを恐れる」あまり、一般の殺人に対して、少しの罪悪感も湧かなくなっているのです。彼はいくらでも殺人をするでしょう。しかしすでに五逆の罪を犯している彼は、少しも堪えないのです。殺人事件を犯して死刑が確定している人間は、窃盗や詐欺の罪を作ることへの罪悪感などすっかり麻痺してしまう。まして赤信号を渡ることに抵抗を抱いたりしないでしょう。彼は、生きたいと思っているのではなくて、死ぬことはすでち前提となっていて、無間地獄ではなく、浄土に往生したいだけなのです。彼は、一般の殺人(父母殺しではない殺人)くらいならば、今後いくらでも犯すでしょう」
と羽黒祐介は語りながらも、そうは言っても相馬先生はもう殺人を重ねる予定はなくて、この山中他界で自殺する気だろう、と思っていた。
「彼は、どこまでも原典主義なのだ。そのためにあの「五逆の罪の者を除く」という一文を克服することがついに出来なかったのだ。しかし仏教はひとつの巨大な生命である。その教えは言葉に縛られることがない。阿弥陀如来の絶対的な大慈悲を、彼はついに信じることができず、そのために彼は阿弥陀如来を恨んだ。そして観音こそ、自分の罪科を許してくれる存在と思ったのだ。そうして自己のとらわれの心のままに仏教を咀嚼し、無間地獄の影に怯え続け、人を殺し続ける。彼ほどの大悪人がいるだろうか。そして彼が大悪人であればあるほど、彼は阿弥陀の救済の対象となり得るのだ」
と締めくくった胡麻博士の言葉を、祐介はわずかに理解できずにいた。




