130 儀式の意味
「すると、そもそもの仮定が間違っていて、首のない阿弥陀如来立像は、相馬先生が切り取ったものではないのではないでしょうか。単純に考えると、相馬先生が五逆の罪を重ねる行為や、相馬先生が自分で切断した証拠品である「首のない阿弥陀如来立像」を森永さんに手渡す行為には、どうも合理的な説明が出来ないように思います。
ここで飛躍的な想像を交えてよいのなら、この阿弥陀如来立像は、相馬先生が、田崎弥生さんに首を切り取らせたものではないでしょうか。
するといくつかの謎が解けるのです。相馬先生は、田崎弥生さんに五逆の罪を被せた上で、彼女を殺害し、密教の儀式で、さらにその五逆の罪を浄化させようとしたのではないでしょうか」
「そんな馬鹿な!五逆の罪を浄化させるのならそもそも罪を作る必要がないし、わざわざ罪を作ったのなら浄化する必要がないではないかね!」
という胡麻博士の反論は、のぞみには充分に納得のゆくものであった。
「仰ることはよく分かります。少し落ち着きましょう。しかしここで考えていただきたいのが、自分の五逆の罪を滅罪したいのなら、自分に対する儀式を行えばよいだけで、なにも田崎弥生さんや第二の被害者を殺害する必要はなかったはずです。十一面観音に関するお経の内容からも「十一面心真言を一度でも唱えれば、五逆の罪は滅却される」わけですからね。
ここで胡麻博士に少し解説を頂きたいのですが……かつて熊野で行われていた「補陀落渡海」について……」
「補陀落渡海かね。それは全国的にも有名な熊野三山の信仰で、観音浄土である補陀落山に渡ろうとして、信者や僧侶が、船で南へと向かう。そのまま生きてかえってくることはなくて、実質的には自殺とされるものだ。
古代より熊野の海の彼方には常世という霊界があるとされていた。常世ははじめ、永久の夜という意味で、光ささぬ暗黒の霊界であった。それが時間と共に、海中の他界である、現在の常世という死後の世界に変わった。わたつみの国も似たようなもので、これも海中の他界さ。さらに、道教の蓬莱山の信仰も混じって、明るいイメージの龍宮という海中の他界ともなった。
熊野信仰において、補陀落渡海は、そうした古代の海洋他界の信仰を引き継いでいて、彼らは異界である補陀落に渡ろうと船を漕ぎ出したのだろう」
「解説をありがとうございました。それと、阿弥陀の極楽浄土の信仰が流行した折、進んで自殺をした人はあったのでしょうか?」
「それは相当数いたのだろう。この世に生きるよりも早く死んで極楽浄土に往生したいと言って、説法を聞いた直後に木から飛び降りて自殺した人間の話なども聞いたことがある」
「ありがとうございます。それでは、こうした歴史的な前例を踏まえて、あらためて考えてみたいのですが、相馬先生が補陀落浄土を信仰していたとして、観音堂を補陀落山に見立て、密教の法具を盗んで、十一面観音像の前で、五逆の罪を滅する密教の儀式を執り行った場合、死後往生の信仰の形態からいってそれが一体誰のための儀式であるかといったら、それは生者である相馬先生ではなく、観音堂の中心で亡くなっていた田崎弥生さんの方である気がしませんか?」
「ふむ……」
「すると、翻って考えると、あれが田崎弥生さんのための儀式であるなら、田崎弥生さんも「五逆の罪」を犯していたという理屈になります。
その罪作りこそが、あの「顔のない阿弥陀如来立像」だったのではないでしょうか。田崎弥生さんに「仏身を傷つけさせる」ことで五逆の罪を犯させ、その上で、自分の考える密教の儀式で殺害してしまった。
その上で、彼が調べようとしたのは、彼女が本当にそれで補陀落に往生するものかどうか、彼は自分の儀式の実効性の確証を得たかったのではないか。つまりこれは、彼女に五逆の罪を負わせ、今度はそれを儀式で浄化させて、殺害し、あの世からの報告を待つという実験殺人だったのではないでしょうか」
 




