129 謎解きは難解さを増してゆく
「また北周の耶舎崛多訳の『仏説十一面観世音神呪経』においても、やはり同様に、十一面心真言を一度でも唱えると、四根本罪と五無間業が浄化されると説いている。この五無間業というのがすなわち五逆の罪である……」
と胡麻博士はかように説明を補強させた。さらにこのように説明は続いた。
「その他『十一面観世音菩薩陀羅尼経』は、補陀落山において観音菩薩が教えを説いたものだが、これにおいても「誦此呪一遍、十悪五逆一切罪障、皆悉消滅」という一文がある。これもまた呪文を一遍でも唱えれば、五逆罪の罪障がことごとく消滅するという意味なのだ……」
「どうやら美しいほどに辻褄が合うようですね。相馬先生は無間地獄に落ちる恐怖心から阿弥陀信仰を頑なに拒むようになり、代わりに十一面観世音を信仰するようになった。そしてその目的は、自己の五逆の罪を滅罪して、観音浄土であるところの補陀落山に往生することだったのでしょう」
円悠は、興奮している様子でそう言うと、先程の胡麻博士を真似するかのように、ずりっと膝を擦って祐介に接近した。
「その通りでしょうね。以上の点を踏まえると、相馬先生は限りなく犯人の人物像と酷似している」
祐介のその一言で、居合わせている人々の表情には電光のような衝撃が走ったようにのぞみには見えた。
「相馬先生が犯人だと推定するのかね。これはたまげたな……」
と胡麻博士は腕組みをして考え込む。
「しかし今日、彼が観音堂の死体を見出した時の錯乱っぷりはとても演技とは思えないものだったぞ。なにしろ、本当に失神したのだからな……」
と胡麻博士はいまいち、相馬犯人説を、信じられないのだった。
「確かに演技とは思えない。彼は本当に神仏の祟りを畏れているように見えました」
「さよう……」
「この問題は一旦、置いておきましょう。ところで、補陀落山というのは先程、胡麻博士が仰ったように八角形の山なのだとしますと、さらに奇妙な繋がりが見えてくるように思うのです。
旧観音堂と新観音堂は共に、八角形の形状をしていました。となれば、これは殺害現場を補陀落山に見立てようとした思想犯罪ではないでしょうか」
と祐介は言った。
「確かに現場の観音堂は、八角形だった。辻褄は合うといえるだろう。おまけにそこでなんらかの密教の儀式を行ったのだとしたら……」
と胡麻博士は動揺が隠せない。しかし解せない点もあるらしく、ううっと唸ると、祐介にこう問い返した。
「しかしそれならば、相馬先生は何故、田崎弥生や第二の被害者の女性を殺害したのだね。自分の罪業を浄化したいのならば、自分に対しての儀式を執り行えばよいわけで、決して他人を殺すことで、自分が救済されるという理屈はないはずだが……」
「これが本事件でもっとも謎めいている点です。何故、他人を殺害することで自分が救済されることになるのか……。そこで、考えるべきなのが、この首のない阿弥陀如来立像です。この仏像の首は、あきらかに人為的に鉈などで切り取られたものです。それも切断面の真新しさからいって、二十年以上前ということはありません。ここ数年のことでしょう。ここで次のような疑問が浮かびます。
1 仏像の首を切り取った人物は誰か
2 何故相馬先生が仏像を所持していたのか
3 どうして相馬先生は仏像をのぞみに手渡したのか
4 何故仏像の首は切り取られたのか
この四つの疑問を考えてゆくと見えてくる真実があると思います。まず、第一の問いである「仏像の首を切り取った人物は誰か」ですが、差し当たって、考えられるのは「相馬先生」と「相馬先生以外の人物」の二択です。
ここは差し当たり、「相馬先生」が「仏像の首を切り取った」のだと仮定してみましょう。
すると、第四の問いである「何故仏像の首は切り取られたのか」については、胡麻博士の仰る通り、五逆の罪の一つ「仏身を傷つけること」を象徴するためだと思います」
「そうかなぁ。たとえば偶然、破損したという可能性は?」
といきなり楓が口を挟んでくる。
「この鉈彫りのような切り口から言ってまずそれはないでしょう。偶然の破損ということはあり得ません」
「じゃあ。たとえば、これが犯行現場にあって、顔の部分に指紋がついたとか、血液が付着したとかで、頭部を切断せざるを得なくなったってゆう可能性は?」
とさらに楓の質問は続く。
「その場合、この阿弥陀如来立像自体が小型のものですから、これ自体を持ち去ってしまえばいい話です。仏像の首を切断する手間の方が圧倒的に大変です。それに現実に、相馬先生はこの仏像を丸ごと持ち去っているのですから、頭部に指紋がつこうが、血液が付着しようが、切断する必要はないはずです。それでもなにか証拠が残っているのなら、仏像ごと土中に埋めたり、火に焚べてしまえばよい話です。そもそもすでに五逆の罪を犯しているのですから、丸ごと廃棄してしまっても罪業に違いはなかったはずです。
それでは、これが五逆の罪の象徴のために切断されたのだとすると、相馬先生は、父母を殺した上、何故またかような五逆の罪を重ねたのでしょうか。また重ねなければならない理由があったのでしょうか……」
すかさず、胡麻博士の推論が割り込んできた。
「それはきっと「頭のない阿弥陀如来立像」が、それすなわち、自己の罪業である五逆の罪の象徴だからじゃないか。そうやって自分の業をますます深めて、五逆の罪を深めることが、彼のせめてもの天邪鬼な懲罰への反抗というわけさ」
のぞみは、胡麻博士の解釈に、比較的常識的という印象を受けた。
「それでは、それを持ち歩くという行為はこれは何を意味しているのでしょう」
「そうやってあえて五逆の罪を我が身に引き寄せて、罪業と共に生きてゆくことによって、自己の罪の自覚を深め、その苦しみの中からなにかを得ようとしていたのではないかね」
「それは到底考えられないことです。相馬先生はそんな前向きな思考の人物ではありません。何故なら、彼にとっての五逆の罪の原因である父母殺しを起こしたというサスケフラワー号海難事故のトラウマは、今もなお彼の中で持続しています。そして彼の精神を蝕んでいるのです。そのため、彼は海洋恐怖症になっているのです。我々が目にした相馬先生の錯乱は、決して演技とは思えないものでした。そもそも、彼が阿弥陀如来に帰依したのも、十一面観音の補陀落浄土の往生を願ったのも、五逆の罪からの「逃避行動」だと言えるのです。その「逃避行動」を起こしている彼が、五逆の罪の象徴である「首のない阿弥陀如来立像」を鞄の中に仕舞い込んで持ち歩くとは思えません。それにこの「首のない阿弥陀如来立像」という仏像を新たに作り上げた理由はなんだったのでしょう。五逆の罪の象徴をさらに作り上げる必要はまったくないはずです。何故なら、それでなくても父母殺しの罪業は彼の拭い去れないトラウマとなって彼を苦しめ続けているのですから……。それに仏像を何故、森永さんに手渡す必要があったのでしょうか。すでに父母殺しを告白している以上、森永さんにこの「顔のない阿弥陀如来立像」を手渡して、五逆の罪を暗示させる必要はありません」
のぞみは考えれば考えるほど、この「顔のない阿弥陀如来立像」の意味が分からなくなった。




