128 十一面観音の謎
羽黒祐介の多分に想像を交えた推理は続いている。
「犯人は、二度の殺人事件を通し、観音堂に固執していることは分かっています。それと同時に密教法具を使用して、なんらかの儀式を執り行ったということももはや明らかな事実となっております。つまり仏教に造詣の深い人物でもあるということです。そして犯人は、観音の呪力を借りるのと同時にその呪力に畏れを抱いている。これは、密教法具は白緑山駅付近の骨董品店に売り払ったことからも分かります。このような心理状態に該当する人物がいるでしょうか……。
ここで相馬先生についてあらためて考えてみましょう。彼は、以前より白緑山大学で仏教文学の研究を続けていて、突然造詣も深く、サスケフラワー号海難事故で父母を殺したことから、「五逆の罪」の罪業に苦しんでいます。そして一時は救済を求めて阿弥陀信仰をしたものの『大無量寿経』に「五逆の罪の者は除く」という一文があったことから疎外感と恐怖心を抱いて、かえって阿弥陀如来を忌み嫌うようになりました。
この心理状態が、自分が父母を殺害したという精神苦に端を発したものであることは今となっては明らかです。それと同時に、輪を掛けるように無間地獄のイメージが重なってきて、彼の自我を過敏にさせ、同時に蝕んでいったのでしょう。平安時代に源信が記した『往生要集』に描かれている無間地獄の凄惨さは、仏教に詳しくない僕でも噂を耳にしたことがあります。しかしその上で彼の苦しみは、無間地獄の恐怖心を本体としているのか、それとも父母殺害の罪悪感を本体としているのかははっきりとしません。おそらくふたつの感情は、相互に依存しており、溶け合っている、つまり無礙にして一体の状態であったのだと言えるでしょう。
それでは、相馬先生は密教をどのように捉えていたのでしょうか。
楓ちゃんの発言から、史学科の資料室で、彼が「十一面観音の本質は現世利益ではない」という趣旨のことを述べていたことが分かっています。
十一面観音は、多面多臂にして、奈良時代より信仰されている密教仏です。その密教仏に対し、相馬先生がなんらかの思想を有していることがここで明らかになります。
ここで問題なのは、無間地獄に落ちることを恐れており、同時にサスケフラワー号で父母を殺害した罪悪感に苦しめられている相馬先生には、往生する仏国土が絶対に阿弥陀の極楽浄土でなければならないという理由はなかったことになります」
胡麻博士は正座している自分の膝頭をポカンと叩いて、大袈裟に頷いた。
「そうだ。実にその通りだ。彼は決して極楽浄土に往生したいと思っているのではない。無間地獄に落ちたくないと思っておるのだ。そして彼は自己の罪業を責め立てられる心理的な苦しみから脱したいと思っておるわけだ。すると彼は「五逆の罪を犯した自分を受け入れてくれる仏」を探していたことになる」
「これは僕の推測に過ぎませんが、相馬先生の言動を振り返ってみると、彼がたどり着いたのは観音菩薩だったのでしょうね」
「きっとその通りだ。観音には、補陀落浄土という独自の浄土があるとされているのだ。この補陀落山という山は、八角形の形状をしており、インド南端にあるとされている。
もしも彼が、阿弥陀如来に極楽浄土に往生することを拒まれていると知ったら、今度は観音菩薩の補陀落浄土に往生しようと考えたことだろう」
「ええ。そのような思考になると思うのです。そのため、彼が現在、観音の神変に恐怖を抱いていることは、観音信仰こそが彼の存在を揺るがすような絶対的な存在と化していることの何よりの証拠と言えるのです」
すると胡麻博士は、あっと小さく叫んで、畳を打つと、羽黒祐介に擦り寄って、興奮冷めやらぬ声でこう捲し立てるように言った。
「羽黒君。もしもそうだとすれば、恐ろしいほどに辻褄が合うぞ。十一面観音について記されている経典は、この世に五つあるとされる。
唐代に、玄奘三蔵法師が翻訳した『十一面神呪心経』一つを紐解いてみても、そこには明確に「十一面心真言を一度でも唱えた者は、五逆の罪が浄化される」ということが記されておるのだ」
胡麻博士の言葉に、雷鳴の如き衝撃を受けたのは、今度は羽黒祐介の方だった。




