126 四十八願について
のぞみによって羽黒祐介、円悠、胡麻博士の三人は、とある一室に招かれた。それはのぞみと楓が宿泊することになっている一室である。
のぞみが相馬の話を終えると、円悠が思い当たる節があるらしく、ずりっと前へ膝で進んだ。
「このように考えることができるでしょう。相馬先生は無間地獄に落ちると繰り返し述べ、阿弥陀如来への憎悪の念を示し、父母を殺害し、首の切り取られた阿弥陀如来立像をこの通り、持っていたというわけであります。これは……胡麻博士。仏教に少しでも触れている人間であれば、考えるまでもない事実でありますね」
と円悠は語ると、胡麻博士は静かに頷いた。
「五逆の罪、だね……」
のぞみはその言葉に聞き覚えがなかった。「五逆の罪って?」
すると、円悠はのぞみに優しく説明するように言った。
「五逆の罪とは、一つでも犯せば、無間地獄に落ちるとされる五つの大罪であります。母を殺すこと、父を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることの五つを指し示しています。これは同時に、五無間業とも言います……」
「仏身を傷つけるというのは勿論、仏像を傷つけるという程度の意味合いではない。しかしこの首を切り取られた阿弥陀如来立像は、仏身を傷つける行為の象徴的な表現ともとれる」
と胡麻博士は、床に横たわっている首無しの阿弥陀如来立像を見下ろしながら言った。
ここで疑問を口にしたのは仏教に詳しくない、羽黒祐介だった。
「相馬先生は、サスケフラワー号海難事故において父母殺しを自分が行ったと……少なくとも自分ではそう思っておられるようです。彼は、五逆の罪を犯しているということになり、八層の地獄のうち、最下層で最悪の責苦を受ける無間地獄に落ちることが確定している人間ということになります。彼が無間地獄を恐れているのも当然と言えるかもしれません。
ただ、僕が上手く理解できないのは、相馬先生はその罪業感を抱いていて、救済を求めて阿弥陀如来を信仰していた……。阿弥陀如来は、その名を心から唱えれば、極楽浄土に往生することが保証されている大慈悲の仏ですからね。綺麗に辻褄が合っているように思います。それなのに何故、今、彼は阿弥陀如来を憎悪しているのでしょうか?」
と羽黒祐介が胡麻博士と円悠の顔を見比べるようにしながら言った。
「これはわしの推測にすぎないが……阿弥陀如来が極楽往生を誓った四十八願の十八願目の本文に、そのヒントが隠されておると思う……」
胡麻博士は、苦しげな表情を浮かべ、その文章をスマートフォンで調べて、羽黒祐介に見せた。
設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
羽黒祐介は、この難解な漢文を見せられて一体全体どうしろというのだ、という訝しい目つきで胡麻博士をじっと見つめる。
胡麻博士は、こほんと咳をして、説明を開始した。
「ご説明しよう。阿弥陀如来がいまだ如来の位につかず、法蔵菩薩という名で呼ばれていた頃、将来悟りを得て、如来になった時のことを想起し、四十八の誓いを立てられたのだよ。
阿弥陀如来はこの時、十八願目にこのような誓いをされた。
わたしが仏になるとき
すべての世界の人々が
心から信じ
わたしの国に生まれたいと願い
たとえ十回きりでも念仏し
もしも生まれることができないのなら
わたしは けっして悟りを開きません
これが一般的によく知られている十八願目だ。この誓願の後、成就して仏となったのだから、十回きりの念仏で極楽浄土に往生確実という内容と読み取ることができる。しかし、この後に問題となる文が続く。
ただし 五逆の罪を犯した者と
仏の正しい教えを謗るものを除く
というわけだ……」
胡麻博士の言葉に、羽黒祐介は息を呑んだ。
「五逆の罪を犯した者は救済の対象にならないのですね……!」
と大きな声が出てしまって、我ながら恥ずかしくなる。
「そのように読み取ることもできる」
「どう読んだってそうですよ」
「いや、そう単純な問題でもない」
「どこが……」
「これは、かの親鸞上人も相当、頭を悩ませた問題だ。しかし五逆の罪を犯した者も、仏の教えを謗る者も、最終的には阿弥陀如来の絶対的な大慈悲に救済されることになるので、結果は同じことになる。極楽浄土に往生するのだよ。結果は往生できるから大丈夫なのだ。しかし相馬先生はそのようには考えておらぬ。わしは直接、彼自身の口から法然上人、親鸞上人を批判する言葉を聞いている。彼はつまり浄土宗と浄土真宗の立場を絶対に取らないのだ……」
胡麻博士の説明は、羽黒祐介をより混迷へと導くのだった。
「となると……これは、つまり、一体どういうことになるのでしょう」
「彼が無間地獄に落ちるのかどうかはこの際置いておいて、重要であることは、彼が五逆の罪によって、自分は無間地獄に落ちると心から信じているということだ……」
と胡麻博士が言ってくれたので、ようやく羽黒祐介も事態が飲み込めた。しかしすぐに次の疑問が脳裏に浮かんだのだった。
「そのため彼は阿弥陀如来に憎悪を抱いておるのさ。一時はその存在に惹かれて、信仰をしておった。ところが自分の罪科である五逆罪に関して、阿弥陀如来は救済から除外しておられた。彼の脳裏にふたつの感情が迸ったのだろう。自分は無間地獄に落ちるのだ、そして自分は裏切られたのだと……」
十分に納得できる話だと祐介は思ったが、それだけでは説明のつかぬことがある気がした。
「それで……相馬先生が、この首のない阿弥陀如来立像を所持していたことと観音菩薩の神変を過度に恐れていることは、一体どのように説明できるのでしょうか……」




