125 サスケフラワー号海難事故
(先生はかつて本当にそういう事故に巻き込まれたのかな。それとも、そんな事実はなくて、ただ幻覚を胸に抱き、生きてきたのかな……)
とのぞみはどう判断して良いものが分からずに悩んだ。相馬は、釣り殿の手すりに掴まると、弁天池の中に勢いよく嘔吐した。そしてぐらりと頭が傾いたかと思うと床板の上に活きの悪い鯉のように横たわった。
「大丈夫ですか……部屋に戻りますか……」
「構わない。わたしは……それから仏教文学の研究を続け、阿弥陀如来を信仰するようになった。父母を殺した罪、自分の罪業を取り祓う術を探していたのだ……。わたしは阿弥陀の慈悲にすがり続けた……」
「その罪業は、ご両親を海に葬ったという……」
「そうだ。海の藻屑と化したであろう父母のことを考えると、わたしはとても生きてゆかれぬ気持ちだった……」
相馬はまるで何かに取り憑かれているかのような生気のこもっていない目で、釣り殿の天井を見上げていた。
「ここはまるであの日のクルーズ船のようだ……わたしは海の上にいるのだ……」
「そんなことはありませんよ。ここは弁天池です。先生が海難事故に合われたというのは、きっとそれは夢の中の出来事だったんです。お疲れなんですよ……」
「そんなことはないさ。そのスマートフォンで、サスケフラワー号海難事故と検索してみるがいい……」
そう言われて、のぞみはスマートファンで「サスケフラワー号海難事故」と検索をし、ただちに事故の全貌を知った。
それは今から二十年近く前に世界を震撼させるに至った大海難事故であった。クルーズ船のサスケフラワー号は、横浜港から出航。相馬の話とは異なり、実際にはマレー沖で岩礁に接触、座礁し転覆の後、沈没。多くの船員、乗客が逃げ遅れて、溺死に至ったということであった。救命ボートに搭乗できたのは、乗客全体の半数に満たなかったということである。
あまりにも悲惨な内容で、同時にセンセーショナルな事故であったようだけれども、二十年近くも前の事故であるため、二十歳ののぞみには、まったく記憶にないもので、意識に止める機会もなかったのかもしれない。
(でも、相馬先生とお父さん、お母さんの三人だけで救命ボートに乗っていたなんてことあるかな……)
救命ボートにそんな少数で乗っているという状況は、あまり耳にしたことがない。どうしても相馬先生の極度の神経症による錯覚なのではないか、という気がしてしまう。のぞみは目の前で、亡霊のような、あるいは即身仏のような枯れ果てた姿になっている相馬を見つめながらそう思った。
「それならば、相馬先生は今でも海を恐れているのですね……」
「ああ、小賢しい現代医学では、海洋恐怖症などというのかもしれない。しかしこれは父母を殺した自分への怨霊の呪いなのだ。あの船に乗っていて救われなかった人々の霊魂から突きつけられている罪業なのだ。人を殺してまで生きるということは罪を背負うことなのだ……」
「きっと考えすぎですよ。診療内科に受診すれば、医師に程よい精神安定剤を処方してもらえるし、医院から程ないところにある調剤薬局にゆけば、薬剤師の説明の後、薬を購入することができます。あとはできることなら、お薬手帳を……」
「そんな話はどうでもいい。俺は、これを神仏による天罰だと真摯に受け止めている。これを見てくれ……」
相馬は床板に放り出している鞄から、首の切り取られた阿弥陀如来立像を取り出して、のぞみに手渡した。
「これの意味がわかるか……あの羽黒祐介という探偵と胡麻先生、そして円悠さんを呼んで、この意味をよくよく考えてみるといい。君たちが結集すれば、俺の罪がどのようなものか、きっと解き明かせるだろう……。しかしそれも今の俺にとってはどうでもいいことだ。あの観音堂で神変が起こったということが、今の俺にとってはなによりも重大なのだ……」
のぞみがそう言われて頷くのを見届けると、相馬はふらふらと立ち上がって、釣り殿から出てゆこうとした。
のぞみは、その頼りない後ろ姿を見つめていたが、視界から相馬が消えると、今度は、手渡されたばかりの首のない阿弥陀如来立像を見つめることになった。
(一体これはどういうこと……? なぜこの仏さまは首を切り取られているの?)
のぞみにはその意味がまったく分からなかった。
・父母を殺したという男
・首の取られた阿弥陀如来立像
このふたつが意味するものとは、さて一体全体、何であろうか。仏教歴史民俗ミステリ読者の聡明なる諸君ならば、すでに真相の向こう岸に辿り着かれていることであろう。仏教風に語るならば、此岸から彼岸へと辿り着いているわけである。
それでも分からなければ、阿弥陀如来の四十八願が記されている「大無量寿経」を一から読誦されることをお勧めする。
それではいよいよ相馬の思想に迫る戦いが始まる。




