124 海難事故
のぞみが円悠との秘密のあれこれに胸が熱くなり、羞恥心を感じながら荷物をまとめて食堂へと赴くと、その畳敷きの間には、一般客に混じって、相馬先生の姿があった。相馬の箸は震えていて、ひどく怯えている。何に怯えているのか、のぞみには判然としないところであった。悪霊にも取り憑かれたのかな、という程度にのぞみは軽く思ってその様子を遠巻きに見ていた。
相馬先生は膳に並べられた精進料理をひどく時間をかけて黙々と食べていたが、突然、右手を口に抑えて、今にも嘔吐しそうになっている。周囲の人々が気味が悪そうにその様子を見守っている。相馬は咳き込みながら、徐に立ち上がると、
「地獄に落ちてしまう……地獄だ……無限地獄……」
と悲痛な声で口走って、のぞみに背を向け、どこかに向かって歩き出そうという気色であった。
「先生……!」
のぞみは相馬を慌てて呼び止めた。相馬は死人のような蒼い顔に恐怖を浮かべたまま、のぞみの声を頼りにして振り返り、その手に支えられて、先程と同じところに坐した。
「ご様子から察するに、先生の心は今まさに地獄道を彷徨っていらっしゃるのでしょう。しかしその理由がわたしには皆目見当がつきません。どうかそのお悩みの内容をこのわたしにお聞かせくださいませ」
とのぞみが丁寧な口調で言うと、相馬は血の通わぬ青白い肌、亡霊のような表情のまま、まじまじとこちらを人形のように見つめている。しばらくして、のぞみの慈悲心に胸が打たれたのか、相馬は頬からほろほろと涙を流し俯いた。
「ありがとうございます……。あなたこそ真の観音菩薩だ。しかしどうか、このことだけは内密にお願いしたいところなのです。よければ、ここから程ないところにある弁天池の釣り殿に随伴してくれませぬか……」
相馬がそう言うので、のぞみはせっかく用意された精進料理を一口も食べることなく、食堂から延々と続く鶯張りの廊下を歩いて、今や漆黒に染まった弁天池の見える釣り殿のような舞台まで、二人でやってきたのだった。
弁天池は、向こう岸まで三十メートルも無いに違いない。中央に小さな島が作られていて、そこに弁財天の祠が拵えてあるのだった。
それも今では全て、暗闇に覆い隠されてしまって、不気味な静寂に包まれていて、死霊が渦巻いているようにすら、のぞみには思えた。
「わたしはこの場所では、立ち続けることも出来ません……」
と突然、相馬が悲痛な声を上げてうずくまったので、のぞみは驚いて振り返った。
「えっ、なんで……だって自分で弁天池に行きましょうって……」
「わたしは、海や池のような無数の水が溜まっているところに近寄ると、このように手に汗が浮かび、ひどい胸騒ぎがして、目眩に世界が揺らぎます。息が詰まるようです。すみません。ここに座らせてください……」
と言って、相馬が釣り殿の床板に胡座をかいて頭を抱えた姿は、とぐろを巻いた大蛇のようである。相馬は自分の言葉の通り、手足が細かく震えており、息も乱れている。まるで本当に何かに取り憑かれているかのようだった。
「あの、無理なさらないでください……」
「いえ、わたしがこのような責苦を味わうのは神仏による天罰なのです。わたしがあの夜、両親を海に捨てたから……」
のぞみにとってその言葉は、とても現実のものとは思えなかった。精神不安定になるあまり、些細な過去の出来事を、そんな風に大仰に捉えているのだろう、と思った。
「あなたはきっと殺人事件に巻き込まれたショックで、胸中に幻覚を抱いているのですよ」
「そうではありません。わたしは本当に両親を海に捨てたのです……」
相馬はそう言って、柱を両手で掴んでふらふらと立ち上がると、黒塗りの池にまるで死後の世界が潜んでいると思っているかのように、物憂げな目つきで見つめているのだった。
「詳しいお話をお聞かせください……」
「わたしは大学生の頃、とある客船に乗りました。両親も同じ客船に乗っておりました。いわゆるクルーズ船です。そして東京湾から中国大陸の方へと船で移動し、東南アジアを観光する予定だったのです。ところがこのクルーズ船は途中、海難事故に遭い、沈没してしまったのです」
「なんでまた……」
「クルーズ船は、設計当初から問題があったようですが……。わたしたちを乗せた船は、嵐に呑み込まれて中国大陸、福建省の東の洋上で、座礁して、海水が船内に流入するようになってしまったのです。わたしは両親と共に救命ボートに乗りました。それからしばらくわたしたちは海の上を漂っていました。どこへゆくのかも知れない不安な旅でした。救命ボートの上の荷物の中には、数少ない食料しかありません。それを三等分してしのごうというのです。わたしはしばらくの間、この船で生活しなければならないだろうと思いました。ある日、わたしは父と口論を始めました。これから生きてゆける保証もなく、お互いとても不安でした。わたしは父の胸ぐらを掴んで、そのまま海に突き飛ばしました。そしてそれを見ていた母も……。わたしは救出されるまでの間、両親をふたりとも海に沈めてしまったのです……」




