121 森永のぞみと名乗る女
「しかし驚くべきことで、今こうして吉田咲さんが殺害されたということ……そして仏像が移動されていたこと……相馬先生が失神されたこと……みっつの出来事が立て続けに起こって、現在、対応に追われている状況です。初動捜査が難航しており、皆さんをすぐにお帰しするわけには参りませんので、一旦僧坊に引き上げて頂くとしましょう」
と藤沢警部が言ったのは、死体発見者たちを交えた現場検証が一通り終わった時のことで、その場にいる六人は(相馬はすでに僧坊に移動されている)本堂横に建っている僧坊へと移動することになった。すでに日が暮れてきていて、書院造りのようなその僧坊に着く頃には、周囲の山並みは紫色に染まっていた。鶯張りの廊下と座敷の並ぶ僧坊には、枯山水の庭園が随所に拵えてあって、のぞみは普段なら入れないところまで足を踏み入れることができたおかげで、気分が揚々としていた。
「実に素晴らしい庭園ですね」
とのぞみが法導和尚に語ると、和尚はじろりとのぞみを見て、
「素晴らしい庭園などどこにもありませんな。君がそれを見ようとするからそれが見えてしまうのだ。見ることもなくそれを見なさい……」
と語ったのだが、この頃はのぞみも仏教思想がハイレベルになりつつあるので、すんなりと法導和尚の言葉が理解ができてしまったのだった。
「なるほど、つまり主観で見るから客観が生じるというわけですね。たとえばあれは美しいものであるとか、これは醜いものとか、そういう客観存在を悪戯に生じさせてしまうと……。主観をもたずにありのままに認識しようとすれば、それはすなわち空ですものね……」
「ふむ。物分かりがよいな……」
と法導和尚も、感心したようにのぞみを見つめているのだった。
「しかし因分を頭で理解しても、果分を体得していることにはならぬ。よく心得ておくように」
悟りに至るまでの論理を頭で理解し、言語で解き明かすことができたとしても、悟りそのものを体感できたことにはならない。因分をすっ飛ばして、果分を直接に知るのが、密教というものである。そういうことを法導和尚は語っているのだとのぞみは理解した。
「ところで、吉田咲さんという方は楓ちゃんの友人だったそうですね」
と羽黒祐介がのぞみにさりげなく尋ねてくる。
「ええ……わたし詳しいことは知らなかったんですけど……なんでも同級生みたいで」
「おまけに円悠君の知り合いときている……」
「えっ、円悠の……」
のぞみはその途端、背中がゾクリと冷たくなった。今ののぞみにとって、円悠に近付く女子は何人たりとも生きて返すことができないのだった。といって問題の吉田咲はすでに死亡している身の上である。のぞみは不安の矛先をどこに向けてよいものか判断がつかなかった。
のぞみは円悠と吉田咲の関係がどのようなものであったのか気になってしまい、狭い座敷に案内されたものの、次々と湧き上がってくる不安を打ち消すのに必死になった。
(円悠と吉田咲は、何もない、何もない、何もない……)
何もない、という言葉を繰り返しているうちに、これはひとつの呪文だな、とのぞみは思った。呪術を繰り返していれば、邪に打ち勝つことができるかもしれない。
「森永のぞみさん……。ちょっとよろしいですか……」
という声と共に襖が開いて、顔を見せたのは藤沢警部だった。
「ノックをしてから入ってください」
「襖にノックも何もないでしょう……」
藤沢警部は、咳払いをしながら、のぞみの前に座り込む。
「昨夜、この白緑山寺にいらっしゃいましたか?」
「なんですって?」
「いえ、この寺の僧侶たちが昨夜、もうすでに帰りのバスがない時刻に、森永のぞみと名乗る女性から質問を受けたと証言しているんです」
「いえ、わたし、そんな……だって昨夜は……アパートにいました。楓が証言してくれると思います」
「そうですか。いえ、決してあなたを疑っているわけではないのですよ。しかし森永のぞみと語る女性が昨夜、この白緑山にいたとして……それがあなたではないのなら、当然、その女性とは一体誰だったのだろう、という疑問が湧いてきます……」
「それは確かにそうです。誰だったのですか……」
「いえ、それを調べている最中なのですよ……」
藤沢警部は、低い唸り声を漏らすと、顎に手を当てて考え込んだ。
「その森永のぞみと名乗る女性は……僧侶たちに、円悠さんのことを質問していたようです。僧侶たちは宿坊に泊まっている人かと思い込んでいたので、不自然には思わなかったようですが……」
そこまで語ると、藤沢刑事は口をつぐんでしまった。




