116 破裂音が聞こえてくる山の奥
羽黒祐介は、円悠の話を聞き終わると、ふたりで狭い休憩所を後にした。奥の院のお堂に戻るとその片隅に、円悠が語っていた菩薩像が祀られていて、その手が掴んでいる水瓶からは折れた茎が飛び出していた。
(なんと罪作りな……)
と祐介は思ったが、円悠はなんとも思っていない表情であった。かえって仏の大悲が自分を突き動かさせ、この木彫の蓮華をあの少女に与えさせたのだ、という確信に満ち溢れている幸福そうな表情であった。
「外に出ましょう……」
と羽黒祐介が言い、円悠もそれに従った。ふたりは奥の院横の見晴らしのよい崖に出て、手すりに掴まった。深緑の山の稜線が無限に続いているように見える、素晴らしい眺めだったので、祐介はしばらく見惚れてしまった。
「この壮大な世界が、そのまま自分に秘められているとは到底思えませんね」
「しかしあなたの眼前に広がる世界こそ、あなたが存在し、因分を成している世界に他なりません」
「それがよくわからないんです。自分一人がいなくても、おそらくこの世界は寸分変わらないだろうに……」
「古代インドにおいてこのような議論がありました。牛乳からはヨーグルトが生まれる。それなのに水からはヨーグルトが生まれない。浅はかな人間は、この哲学的な意味を深く思惟せず、理解もできないでしょうが、縁起説に基づけば、因なきところに果は生まれないのです。インドの哲学者たちは、牛乳と水にいかなる違いがあるのかと考えた……」
「ふむ……」
「それは、牛乳の中にあらかじめヨーグルトの本性が秘められているからということになります。あなたが、この世が心によって生み出されたものだとしても、自由に空を飛べるわけではないと言ったのは、これと同様の話で、水からヨーグルトが生まれることはないのです。絶対に動かざる摂理、それが存在の本性というものです。それならば、たとえばあなたがこの世界の因を成している以上、あなたが存在していなければ、この世界はそもそも存在することができないということを意味しているのではないですか」
「そうかもしれません。しかし自己の存在は微小なものです。微小な自分がいなかったとしても、極めて類似した世界が存在し、滞りなく機能することになるのではないですか……」
「それはあなたとは関係のない、どこにも存在していない世界のことでしょう。まったくの別もの、異質の世界であります。松尾芭蕉の登場しない「奥の細道」を想像して、作品として成り立つかどうかを論じるのと同じくらい無用なことではありませんか。このように現前している世界は、あなたが実際に関わり、あなたによって構成されている唯一の現象世界なのです」
「それはまあ、確かに……」
「自己と世界との関係はこのようなものです。あなた自身は無自性で、仮の自己を成しているのは因縁の集合に過ぎません。因を成しているのは、手足や感情といった断片的な存在に過ぎず、縁を成しているのは、他者や社会との虚妄の一時的な関係性に過ぎません。そういったものから生じた自己を、実体として錯覚するのが自我意識である末那識でありますが、本来は空なのです。
すべての事物に同じことが言えます。たとえば、カレーライスは、カレーやライスといった無量無限の因の集合によって、カレーライスという存在を成しています。そして他のカレーライスや、この世のカレーライスではないもの、カレーライスという世俗的な認識や、カレーにまつわる存在の関係性という縁によって、カレーライスと認識されるに至ったに過ぎません。
それと同じように、世界というのも本来は無自性なものなのです。それを仮に構成しているのは、あなたやその他の人間、自然、概念、この世のありとあらゆる存在であり、数多の関係性です。そういう点で、世界は因縁の総合体であり、幻のようなものでありますが、それを実体せしめているのはあなたを含め、多くの存在の働きといえるのです。これらのものが合わさって世界を支えているとすれば、なにも一つぐらい無くても構わないし、微小なものは無力かと思ってしまうところですが、これは存在の数だけ支えている力を折半しているわけではありません。あなた一人がいなければ、そもそもこの世界の実在はあり得ないのです。
あなたが世界を実体として捉えた時というのは、あなたという因が主となり、他の因は姿を隠してしまい伴となり、あなたという存在と世界という存在の相互依存の関係性が浮き彫りとなっている状態です。あなたがなくては存在しえない唯一の世界であるから、あなたはこの世界の主人公たりえているのです。他の存在と関係性はこの時、空となり無力となって、あなたの存在にその関係性を潜在させるものですが、視点を変えれば、いずれの存在もこの世界では主人公となりえるのです。つまりあなたは、重々無尽の法界縁起の世界内で、この世界の根源たるものを秘めていてこの世界全体を支えているのと同時に、世界そのものと一体であるのだと言えるのです」
「だんだんよく分からなくなってきました……」
羽黒祐介が華厳思想にすっかり頭を痛くしたところで、左側の山からなにかが破裂したような音が響いてきた。祐介と円悠は驚いて、その方向を見つめた。奥の院の向こう側なので、それが何であるか見当もつけられなかった。祐介がしばらくそれを見つめていると、円悠は腕組みをして、
「きっと風船というわけではありませんね……」
と言ったので、祐介も何か分からないままで、ううむっと唸ってしまった。
 




