115 倶胝和尚の禅問答を聞かされる祐介
「それから一年の月日が経過し、わたしはこの白緑山でのぞみんと会いました。そしてわたしはのぞみんに悟りへの道を示そうと思い、あなた方とあの二又の道で会い、空の思想の問答を仕掛けた後に、自室に戻ったわたしは金剛鈴を手に取り、のぞみんがいる街の映画館へと向かいました。のぞみんが映画館でローマの休日を観ていることは、のぞみんからのメールで知っていました。映画館を出たのぞみんがどちらへと向かうか、地の利を把握しているわたしには察しがついていました。
わたしはのぞみんに暗示的なもの、神仏の代理人として啓示を与えるために、彼女が通る道にあらかじめ布を敷いて、密教法具の象徴たる金剛鈴を置き、彼女に拾わせました。のぞみんの潜在意識である阿頼耶識には、密教の種子が貯蔵されたことでしょう。その後、のぞみんは東京へ向かい、曼荼羅を拝んで、潜在意識の中の種子が曼荼羅という機縁によってはじめて悟ることとなった。彼女は見事に密教の真理に目覚めたのです。わたしの実験的な試みはこのようにして成功したのでした」
「すると、森永のぞみが密教の曼荼羅を見て、大日如来の真理に気づいたのは、あなたの心理トリックだったわけですね」
「探偵さんが言うとなんだかまるで推理小説みたいですね……」
そう言って円悠は笑っている。祐介はその若き僧侶の屈託なき微笑みを見て、内心なんと恐ろしい人物なのだろうと思っていた。
「しかし……分からないことがあります。あなたの行動の主体性は、妄念から生まれたものか、それとも慈悲心から生まれたものか……」
と円悠の行動力の源泉が何であるのか、祐介はそれを知りたいと思っていた。
「今度は探偵さんらしくないことを尋ねますね。自己の心を主体としながら、いかなる心にも惑わされない。心はあるのと同時に心はなかったのでしょう。心が幻であることをわたしは知っていた。意識が動けば、主客が別れてしまう。すべてのものが変転する世界で唯一、変容することのないもの。自性清浄心の働き、それこそが仏です。それで、あのような行動を起こしたのでしょう……」
「ふむ。あなたの試みは成功した。するとあなたは、彼女が密教に目覚めるべきだと思っていたのですね」
「それがわたしののぞみんへの望みでした。のぞみんは一年前から、来迎図の美しさによって浄土教に傾倒していましたが、彼女の悩みは浄土門ではなく聖道門の教えによって解決されるべきものでありました。聖道門というのは、禅や密教といった自力による修行の世界で悟りが体得されるというものです。これに対し、浄土門は、他力本願の教えであり、阿弥陀の救済にすがるものであります。彼女は一年前に身を投げた女生徒のように、いつかは極楽浄土に憧れるようになる。死後の世界への憧憬を持つようになるだろうと思っていました。そこでわたしは偶然を装い、密教法具を彼女に与えて、聖道門である密教の世界へ彼女を導こうとしたのであります……」
祐介はその言葉に深く頷いた。
「しかしあなたは何故、彼女に言葉でそう伝えなかったのですか?」
と羽黒祐介は円悠に尋ねた。
「彼女の阿頼耶識に種子を貯蔵させることが悟りへと導く唯一の方法だからです」
「つまりあなたは宗教の象徴的な手段を駆使したというわけですね」
と羽黒祐介は簡潔にまとめた。
「無門関にこのような話があります。倶胝和尚は悟りの境地を示す時、ただ指一本を立てるだけであったということであります。ある日、一人の小僧が倶胝和尚の悟りの示し方を客人に尋ねられて、和尚の真似をして指一本立てたということでした。この小僧、このことが知られるや倶胝和尚にその指を切り落とされてしまいます。痛みと驚愕に泣いて逃げようとする小僧を呼びとめた倶胝和尚は、再び指一本を立てて見せたといいます。この時、小僧は悟るものがあったということでした。
悟りの境地を表現する時というのは単なる形象に頼ってはありません。ましてや形象の模倣では何も示すことができていないのです。禅の高僧たち、臨済の喝、徳山の棒、悟りを体現する時の手法は人それぞれの深層心から自然発露したものでした。またそれは単なる技巧的な手法ではなくて、自己存在そのものを悟りの境地と一体化し体現する行為でなければならないのです」
「あの……それで、それがあなたのやったこととどういう関係が……」
「真理は、言葉や論理を超えたところにあります。ただ言葉で教え諭しても表層心を撫でる程度のもので終わってしまいます。わたしはのぞみんの深層心に直接的に象徴的な釘を打ち込むようにして訴えかけたかったのです。そして彼女は、曼荼羅との出会いによって一気に機縁が熟し、それが金剛鈴の象徴的な体験と結びついて、汚泥から美しい蓮華が咲き誇ったように悟りの境地に達したのであります」
「それはまことに……おっしゃる通りかと思います……」
羽黒祐介はそう言うと、熱々のホットレモネードをゆっくりと啜っているのだった。




