114 冬山で蓮の花を探す
円悠の語る「三界唯心」は、具体的には華厳経の中に「三界は虚妄にして、但是の心の作なり」という文々で出てくる。意識現象のみを唯一の実在とするのは東洋哲学ではお馴染みのものであろう。この世のありとあらゆる現象を意識によるものとしている。これは特に驚くには当たらない。しかし円悠の述べようとしていることはそんなことではない。
「たとえばこの草木が自分の心の投影に過ぎないのであれば、事物として実在していないことになりますね。それならば、たとえば心一つで鳥のように大空を飛び上がり、清水の舞台から飛び降りることも可能になるというわけでしょう」
と羽黒祐介が批判的なことを述べるも、円悠はあまり気にしていない様子であった。
「いえ、草木というのはむしろ因縁の集合であり、仮に生じている刹那の事象です。刹那に生ずる事象は、刹那に滅するのでありますが、次の刹那の事象に内容を相続するから、人間の意識においては持続しているように捉えられるのです。哲学者が、不連続の連続というのは実にこのことであります。それを心が捉えた時に「草木」という持続的な観念が生ずるというのは観念論と似ているところがありますが、心一つで何もかも変えられるというわけではありません。しかしこの世のありとあらゆるものを夢幻泡影のようなものだと看破した金剛般若経の教えもあり、人間は、意識によって生じているさまざまな幻影の中でのみ生きているというのが事実でしょう。そのため、かえって神仏の神変をも実在していると捉えられるのがまさに華厳経の世界なのです」
と円悠が語っているうちに、ふたりは杉の大木と五輪塔の並んだ人気のない辻を歩き、奥の院に到着しようとしていた。
巨大なお堂には昼間から、無数の提灯がぶら下がっており、堂内は暗闇と静寂とが秘められていた。奥の院はこの白緑山寺を開山した慈覚大師と勝道上人のふたりを祀っている霊廟なのであった。そもそもこの白緑山は、元々は天台宗の霊場であったことを思わせる。
「素晴らしいお堂ですね。とても神聖な空気を感じます」
「ええ。お参りしてゆきましょう」
円悠に勧められて、羽黒祐介は線香を供えた。自我が滅されて、自然と一体となったような、澄み切った心になる。こういうのが悟りの心に近いのだと羽黒祐介は思っているので、円悠の小難しい講釈よりも、ずっと好ましく思えていた。
「それでお話というのは……」
「こちらにおいでになってください……」
と祐介は円悠に連れられて、人気のない奥の院の休憩室に連れて来られた。そこには自動販売機とベンチがあるのみの狭い空間である。
「ホットレモネード飲みますか」
と円悠は尋ねながらすでに自動販売機のスイッチを押している。
「え、ええ……」
「わたしは仏教者として、今まで多くの実験的な試みを行って参りました。実はそのことでちょっとお話が……」
「は、はあ」
円悠はレモネードの入った紙コップを熱そうに持ちながら、祐介に手渡す。祐介は「熱っ」と小さな声で叫んだ。
「わたしは二年前、このお寺で殺人事件があった日に偶然、自殺をしようとしている女性を助けました。そこの崖から飛び降りようとして、転倒し、松にぶら下がっていたのです。わたしは一刻も早く助けなくてはならないと観音の真言を唱えてから、崖を下ってゆきました。女学生のようでしたが、その方と心中するような関係にもないわたしは、途中でもう助けるのを諦めようかと何度も思いました。しかしわたしは一瞬、足を滑らせて、その女学生と共に崖の下まで転がり落ちたのです。奇跡的にふたりに致命傷はありませんでした」
と突然、自分の武勇伝を語り始めた円悠を、祐介は(意外と自我の塊だな……)と思っていた。
「わたしはその女生徒を連れて、本堂へと戻ろうとしました。なにしろ、雪が降り始めていたのです。辻を戻りまして、薬師堂のところまで到着しますと、わたしは一旦、その女性徒を薬師堂へ案内しました。自殺をしようとして崖が飛び降りた女生徒です。心も身体も薬師如来の治癒を必要としていたのです」
(それで薬師堂に……)
ずいぶん変わっている現代人だな、と祐介は思った。
「わたしは女生徒を薬師堂へ案内し、床に寝かせました。事情を聞くと、どうも高校生で家庭と学校と進路の問題でノイローゼになっているようでした。それでただ一人、自殺をするためにこの山までやってきたと言うのです。わたしが寺務所やご家庭に連絡しようとすると、自分が自殺しようとしたことは誰にも言わないほしい、と頼み込まれまして、わたしは了解しました。彼女は、どうせ冬の山に蓮の花は咲かない、という趣旨のことをわたしに言いました。わたしはそんなことは無いと言いました。そしてわたしは彼女に必ずや蓮の花を見つけて持って帰ってくると言って、彼女を薬師堂に残して、立ち去ったのです」
「ええ、自殺未遂の少女を一人残して……」
羽黒祐介は若干、引いていた。
「わたしは山の中を駆け巡りましたが、蓮の花はなかなか見つかりませんでした。そうしているうちに雪が大降りになってきました。殺人事件の騒ぎがあの頃に起こっていたのだと思います。わたしは山の中のどこにも蓮の花を見つけることができず、ついに観念して、この奥の院の木彫像の蓮華をパキッと折りました。そしてその蓮華を持って、薬師堂に戻ったのです。彼女は変わらず、低体温状態でぐったりと床に眠っていました。わたしは蓮華を手渡し、彼女を励ますと、人知れず、彼女を送り返したのです……」
「なんと言いますか……頑張ったのですね。それでその方はどうなったのですか?」
「あの後、何度もお寺に尋ねてきてくれています。ノイローゼからも解放され、いまだにわたしが折った蓮の花を大切に持っているそうです」
蓮の花を折った木彫像、大丈夫なのかな、と祐介は若干、引っかかっていた。




