113 華厳思想について
羽黒祐介はどうにか自分にも理解できる話にしてほしくて、反論をする。
「時間論はなかなか分かりやすい話です。なるほど現在という瞬間は、客観的に見るとほんの一瞬ですが、自己の意識に腰を下ろしてみればそれは確かに永遠の持続です。しかし空間論はそう簡単には説明付けられないでしょう。たとえば、先ほどの道端の石ころの中に宇宙があるというのはいかにも超自然的です。あるいは非科学的とでも申しましょうか……それは空間の常識から逸脱している……」
「それはこういうわけです。三界唯心を中心に物事を思惟してゆくと、自己の意識、すなわち心こそがこの世界を現じせしめていると言えるのでしょう。そのため、妄念の巣食う心でみればこの世は地獄、自性清浄心でみればこの世は極楽というわけです。しかし、そうなりますとこの世を自分の心の思いのままに変容できるものと誤解してしまいます。それはまったくの誤解です。この世は、独立した心の世界ではなくて、無数の心が互いに関係し影響し合っている多元的な心の世界なのであります。ある人の心は、また他のある人の心を鏡のように写し込み、心と心の万華鏡のようなものが展開している、それがこの世の実態というものではないでしょうか」
「今のところ、おっしゃることは分かります」
「ここで再び、因果というものを考えてみましょう。因果といいますと、多くは時間的な話ととらえて、過去に原因があって現在に結果があるということをまず考えます。これは「因果異時」といわれるものです。ところが、空間的な話になりますと、今度は「因果同時」ということを考えなければなりません。たとえば、カレーライスの具材と総体との関係性が、まさに「因果同時」に当たります。カレーとライスとが合わさって、カレーライスは構成されており、どちらかが欠けると、それはもはやカレーライスではなくなってしまいます。このようなもの場合、カレーとライスのそれぞれが因であり、カレーライスが果となるわけです。
華厳経で問題となるのは、この「因果同時」の話なのです。何故なら、現在の意識こそが永遠の生ということから、すでに空間的な関係性の話題に限定されてしまっているからです。
そこで問題となるのが、先程の石ころと宇宙すなわち森羅万象との「因果同時」的な関係性です。空間的に小さなものと大きなものという関係性は、三界唯心の世界では取り立てて重要なものではありません。
結論を先に述べますと、この世のありとあらゆるものが相互作用をもって多重の因縁によって密接に結びつき生じているというのがこの世界の理です。羽黒さん。あなたは市井の人間ということで、この全宇宙とは大した関わりを持っていないと思っていることでしょうが、あなたの存在がなければこの宇宙の質は変容してしまいます。カレーライスがカレーになったりライスになったりするようにまったく別物になってしまっているのです。ただ宇宙を規模とするとスケールが大きく複雑で関係性が見えづらくなり、知覚しづらいだけで……。
あなたが宇宙を構成する一員であると同時に、現在生起している宇宙も、あなたがいる宇宙に他ならないのです。あなたがいなければ、それは現在とは異質の宇宙ということになるのです。このように捉える時には、あなたを主と捉えて、他を伴とし、宇宙の網目状の関係性をあなたのもとへと手繰り寄せているのだといえるでしょう。この時、あなたを主とする代わりに、他の因縁は伴となり、あなたこそが主人公となっているわけです。この場合、あなたという存在が宇宙そのものという存在とイコールになっている状態だとご理解いただけるでしょう」
「実によく分かりました」
「自己の因を主として、他の因を伴として網目状の関係性を自分のもとへと手繰り寄せた時、宇宙そのものが唯一の自分によって支えられていることを如実に知るでしょう。この時の宇宙と一体となった心の主体性こそ、禅の求める主体性であり、行動力なのでしょう」
「ふうむ」
祐介は正直、華厳思想の難解さに苦しんだだけであった。
それよりも羽黒祐介は、あの八角形の観音堂の密室殺人の謎を一刻も早く解明したいと思っていた。しかし円悠は何か話があるということであるから、断ることもできない。もしもその話というのがこの華厳経の話だったとしたらと想像するとゲンナリしてくるのであった。
「たとえば、羽黒さんとわたしがこうして心を通わせて会話をしている。羽黒さんは、ご自身とわたしとを別の存在とみなすことでしょう。しかし今、わたしたちは互いに心が影響し合っていて、その声や言葉はどちらのものとも取ることができぬくらい混ざり合っている精神なのです。そう考えれば、切り離すこともできないわけです。そうするとわたしたちは別の存在であるのと同時に、ふたりで一つの存在でもあるわけです……」
と言われて羽黒祐介は、僅かに背中がゾッと冷たくなった。




