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109 密室殺人の謎

 相馬は、ニホンザルの如き滝沢教授の背中を追いながら、二年前に殺戮を行った山道を歩んでいた。冬の吹き荒ぶ風の冷たさの中で、相馬は月日の移ろいの早さに恐怖せざるを得なかった。

 相馬が今、歩んでいる場所はかつて円悠が空の思想を羽黒祐介ら三人の凡夫に問答の形式で仕掛けたY字路であった。そんなことは、相馬は知る由もない。それよりも相馬は二年前、雪降る夜に八角形の観音堂で自分が行った殺人のことを思い出していた。


 黒光りする十一面観音立像の足下に跪いた田崎弥生は、燃え上がる護摩の焔と壇上に並べられた金剛杵や金剛鈴といった金色の密教法具(それらの多くは食器のようであった)を前にして、必死に十一面心真言を唱えていた。そうすれば自分が殺されずに済むと本気で信じているようだった。相馬は、それを冷酷な目で見下ろしていた。生に固執する人間を、相馬は他のいかなる存在よりも醜いと思っていたのである。田崎弥生が十分に十一面心真言を唱え切ったと相馬は思った時、壇上に飾られている金剛杵を手に取り、田崎弥生の頭に勢いよく振り下ろした。ものが潰れるような手応え、ぐちゃっという不気味な音が堂内に響いたかと思うと、田崎弥生はまるで潰れた虫のように床に倒れ込んで、呆気なく息絶えてしまったのだ。この時、相馬は人を殺すことを何とも思わなかった。

(そもそも自分は五逆の罪を犯しているのだ……)

 その自分が今更、どうして人を殺すことを恐れるのだろうか……?

 相馬は人殺すことを今更、恐れている場合ではないのだった。

 燃え盛る焔、その炉の中でブツブツと高い音を立てている田崎弥生の護摩木の姿が、禍々しい地獄の業火に彼女の魂が飲み込まれてゆくよう光景のように相馬には思えた。

 

(彼女は極楽に往生するだろうか……それとも補陀落に往生するだろうか……)

 もしくは……、と相馬の脳裏によぎったのは無間地獄の悍ましい情景であった。地底に八層連なる地獄界のうち、もっとも地中深く、もっとも巨大な空間が無間地獄である。背筋が三十キロメートル、目が六十四もあるという鬼がいて、罪人は切り裂かれ、焼かれ、くり抜かれ、拷問死に値する苦しみを三百四十九京二千四百十三兆四千四百億年間も続けなければならないという想像を超越した世界である。

 相馬は、この地獄を信じていた。そして彼女が、浄土に往生したのか、地獄界に落ちたのか、そのことだけをずっと知りたいと思っていた。

 そこで相馬は、今昔物語集を紐解いた。その人物が浄土に往生したという証拠をどのように得たらよいのか知りたいと思っていたのである。

 該当する部分が、早速、今昔物語集の第十五巻の第一話に見つかった。

(そうだ、これしかない……)



 相馬がこのような思想犯罪を繰り広げる中、犯罪者本人でも理解のできない出来事も同時に起こっていた。相馬は事件を起こした翌日の夕刊を見て驚愕した。

(あれは密室殺人として、新聞やテレビでも相当に騒がれていた……)

 密室殺人……。殺人現場の発見者の証言によると、八角形の観音堂は、まっさらな処女雪に囲まれていて、足跡がひとつもなかったという。すると犯人は、空を飛んだか、雪よりも軽かったかもしれないというミステリ小説じみた記事になっていて、相馬はなんて馬鹿馬鹿しい考察をしているのだろう、と思った。


(雪の密室殺人だと……そんなものは発見者の勘違いだろう。俺は確かに足跡を残したはずだ……)

 そうは思ってみても、相馬はどうもこの密室殺人という摩訶不思議な現象が気になってしまうのだった。あの少女を十一面心真言を唱えさせて殺したために、なにか観音の神変が起こったのではないだろうか、そう思うと相馬としても願ってもいない話で、嬉しくなるのだった。


 殺人現場を発見したのは参拝客というより、ハイキングコースの登山客であったらしい。どんな人物かは相馬も知らない。


(しかし、あれもすでに二年も前の出来事となってしまった。田崎弥生が補陀落に往生したという確証はいまだ得られていない……)

 そこに相馬の苦しみがある。彼は、滝沢教授と共に、奥の院へと続く道に入って行った。山道の左右には、所狭しとおでんを串に刺したような石塔、五輪塔が並んでいる。これらは全て供養塔であり、墓である。現在のような石柱型の墓が流行するのは江戸時代である。

 五輪塔の五つの石は、それぞれ五大という宇宙の五元素を表し、それぞれ地・水・火・風・空を意味している。水は、水そのものというより存在の流動性を意味している。これらが人間の頭や胴体、下半身といった各部位と親密な関連を持ち、さらには同時に宇宙仏である大日如来をも意味しているから、自己ミクロコスモス=大日如来(普遍的な真理)=宇宙・森羅万象マクロコスモスというような理屈になるである。

 そういうことを相馬が考えていると、今度は頭上から見るとヒトデのような、五つに分かれた道に飛び出した。


 先頭を切っていた滝沢教授も一瞬、どちらに進んでよいのか分からなくなって迷子のように立ち止まったが、すぐにそのうちの一本の道を選び、突き進んで行ったので、相馬はその背中を再び追いかけていった。

 相馬の心理描写の中で「五逆の罪」などのいまだ説明のない仏教用語が登場してきていますが、真相が明らかになるにつれ、順次説明されてゆきますので、今は分からないままの状態で気にせずに読み進めてください。

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