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104 相馬の動揺

 ふたりが展示室前の廊下を歩いてゆくと、目の前に人影が現れた。楓には見覚えのあるシルエットだった。仏教文学の研究者である相馬先生である。相馬は幾分、暗い面持ちで展示室の前に一人立っていた。

「相馬先生……」

 相馬は、ふたりの姿をじろりと見つめると、多少気まずそうに顔を背けたが、それも失礼だと思ったのか、楓の顔を見て、

「胡麻か。今日は授業はないのか……」

 と尋ねてきたので、楓は、

「先生の授業が休講になったので……」

 幾分、馬鹿馬鹿しい返事をした。


「そうだったな。いや、冗談を言うつもりはなかったんだ。わたしが突然、休講にして……つまり、白緑山寺に調査があって来たんだ。生徒たちには申し訳なく思っている。滝沢先生もお見えになっているよ……」

(ニホンザルが……)

 と楓は思った。別に授業外で遭遇したい人物ではない。それよりも柿崎慎吾を見つける方が先だと思った。


「民俗学者の胡麻って人に会いませんでした?」

「胡麻先生か。いや会っていない。今日ここに来ているのか?」

 と相馬は述べつつも、楓の顔をじっと見つめていた。

「もしかして君と胡麻先生は親戚なのか」

「実は父親です」

「なるほど……」

 相馬はなにか考え込んでいる様子だった。相馬が何を考えているのかよく分からない。楓がしばらく見つめていると、相馬は意を決したように、楓に語り始めた。


「胡麻先生には悪いことをした。白緑山温泉のラーメン屋でお会いしたのだが、ついつい感情的になってしまったんだ……」

 と相馬は、ひどく申し訳なさそうな面持ちで言った。

「感情的に……? 相馬先生が……? いえいえ! こちらこそ、すみませんでした。うちの父親がきっと変なこと言ったんでしょう」

 と楓が謝ると、相馬は首を横に振った。

「いや、わたしのせいなんだ。実際、そのことについてはわたしも悪かったと思うんだ。ただ、先生が地獄と霊魂の話をしたものだから、わたしはすっかり取り乱してしまったのだ」

 すると、楓の隣に立って静かにしていたのぞみが突然、身を乗り出してきた。

「胡麻先生と、地獄と霊魂についてお話しされたんですね。あの、わたし、芸術学部の森永のぞみと申します。どのようなお話だったのかお聞かせ願えないでしょうか……」

 相馬はこの見知らぬ少女の乱入に、面食らった様子だった。


「ふむ。いや、大した話じゃなかったんだ。胡麻先生に阿弥陀如来について尋ねた時のことで、先生が地獄についても述べられていたから、わたしは地獄というのは自分の心の中にあるものだ、と持論を述べただけのこと。それに彷徨える霊魂のようなものではなくて、阿頼耶識の業種子が来世の自分を生み出させていると、そういうお話をしたまでのことで……」

「それが先生の死生観なのですね……」

 とのぞみは瞳を輝かせて頷いた。

「地獄を観念とするのも一つの心のあり方ですよね」


 すると楓がすぐに相馬にこのような質問をした。

「でも、先生は仏教文学の研究をしているんでしょ。たとえば先生が愛読してきた「今昔物語集」なんかでは、極楽と地獄が出てくるじゃないですか。それを先生は、禅僧みたいに全て、心の状態をさすものだって思って読んでいるんですか?」

 すると相馬は、わずかに震えている様子だった。

「いや、先生はただ地獄というものがおそろしいのさ。だから胡麻先生に、一念三千なんて天台思想を語って、地獄を観念的なものと信じ込みたかっただけのことさ。先生だってね、若かりし頃、「今昔物語集」をはじめて読んだ時には、極楽にも地獄にも心から取り憑かれたものさ。「今昔物語集」を読み進めてゆくのと、極楽往生にまつわる話ばかり出てくる巻がある。第十五巻というやつさ。恵信僧都こと源信が「往生要集」を執筆した頃のことで、極楽も地獄も、実に鮮やかな時代であった。まだ法然の称名念仏が広まる前のことで、観想念仏が主流の時代だった。それはね、阿弥陀のいる極楽浄土を心静かにイメージする瞑想法なんだ。「今昔物語集」や「往生要集」を読んだ当時、先生はひどく悩んでいて、阿弥陀信仰に、そして極楽に往生することに人生の願いをこめたものだった。それは先生にとって唯一の救いだった。あの一文を読むまでは……」

 そこまで語ると相馬はなにかに怯えている様子で黙ってしまった。本気で地獄に転生すると思っているのだろうか、と楓はその震えている瞳を見つめた。


「その一文とは……」

「いや、おそろしい一文だ。しかし、あの一文があってはわたしは地獄に落ちてしまうのだ。それが阿弥陀の本質だ。阿弥陀如来はまさに悪魔だ……」

「まあ……」

 のぞみは心酔する阿弥陀如来を、悪魔などと言われたので、ひどく気分を害したものらしい。

「悪魔なんかじゃありませんよ。阿弥陀如来こそ、慈悲心そのものなんです。そして極楽浄土の教主なんです……」

 と声を震わせている。


「慈悲心そのものであるならばあのような一文があってよいはずはないのだ。試しに阿弥陀の四十八願をよく読み直してみるがよい……」

 そう言うと相馬はハンカチで冷や汗を拭った。その瞳はあからさまに恐怖心に染まっているのだった。一体、相馬先生は何に怯えているのだろう、と楓は不思議に思った。

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