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102 素朴な心

 のぞみと楓のふたりは、廊下の突き当たりにある来迎図の展示室へと向かっていた。

(わたしは一体、何を求めているのだろう……?)

 のぞみは自分に問うた。


 のぞみは人生の主題を知らない。のぞみばかりでなく、多くの人間は人生の主題を知らぬままに生きている。その葛藤の中で芸術を創造し、摂取し、毎日の労働、生活の中に全身全霊を投入してゆくのだろう。

 そもそも人間というものは、ありとあらゆる煩悩に心を(さいな)まれているうちは、目に見える、音に聞こえる世界をすっかり誤認識してしまっているものだ。

 どこで生きているのかもわからぬ人間。


 人間にとってもっとも大切な心とは、素朴な寂然とした庭石のような心だ。禅定とはまさにこの中にある。もしも心が(いびつ)に変形し、妬みや嫉みの中で、つまらない自分などにこだわって、人を愛することができなくなったなら、それこそ一生の不幸という他ない。

 のぞみが求めているのはまさにこの寂然とした心である。

 円悠がのぞみに説いたのも、まさにこの心であった。


(素朴な心で、人を愛したい……)

 もしも、この心を手に入れて、胸の内側にどすんとおいたならば、どんな陳腐な幻想よりも遥かに尊く、自由闊達にこの世界を飛びまわれることであろう。しかし人間というもの、この心をはじめから持っていながら、憐れなことにどこにも見つけることができぬのだ。見栄とか、肩書きにこだわって、いつもどこかに置き去りにしたままの本当の自分自身はまさに「無」というほどに素朴な、たった一つの心でしかないのだ。

 いつだって人間は、妄念に侵され、妄念の巣食う醜い世界で生きている。月が雲に隠れるように慈悲心も姿を消してしまう。いつしかその汚泥の中から逃れる術もわからなくなっている。それが人間の現実というものだ。

 最高の真理は、自分の心の中にこそあるものだ。それは別に変わったものなどではなく、ただありのままの心であって、余計な曲解をせず、ただまっすぐに物事を捉えられているというだけのことだ。



 のぞみは無心を求めている。しかしその反面、のぞみは無心など求めていないのだった。

 もしものぞみが一度たりとも来迎図を拝まなかったならば、のぞみは円悠の語るような無心の世界に迷いなく没入していったことだろう。しかし彼女は、芸術的直感に生きている。だから彼女は庭石の中の寂然とした素朴さでは物足りなくなって、阿弥陀如来の来迎の美しい有り様をひたすらに夢想するのだった。

(来迎図を拝もう……)

 芸術的直感は、どこまでも五感から離れることがない。肉体から離れることのない芸術的直感は、そのままに精神的なものである。肉体と精神の入り混じるところに果てしない芸術の可能性が秘められているのだろう。


 生まれながらの芸術家であるのぞみは、ただ無心であることよりも、やはり肉体的な感覚のある中で、真理が具現化されることを求めているのだろう。

 真理は無相むそう(姿形がないこと)であるが、表現は有相(うそう)(姿形があること)である。こうして考えてみると、のぞみは御仏の神変(じんぺん)をも真理の表現であることを悟っているのである。


 のぞみと楓のふたりは、突き当たりの展示室に足を踏み入れた。

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