101 宝物館の中で
楓とのぞみのふたりは、不思議な直観に導かれるようにして、本堂裏手にある宝物館へと続く道で足を進めている。
人生というのは時々、自我を超越している偶発的な何かの作用で、行く果てもわからぬ方向へと突然に進み出すものである。その現象を、スピリチュアルなものと言い表すものもあれば、潜在意識に根拠のあるものとしてシュールレアリズムと捉える人々もいることだろう。どのような表現を使用しても、それは直観の世界である。人は直観だけでは生きられないが、直観から抜け出すこともできない。むしろ人生そのものが巨大な直観の海である。明確に言い切れることは、インスピレーションというのは、非合理的な深層心の世界にあって、人間の生活のもっとも根深いところに秘しているものなのである。
宝物館へと通じる道の上では、寒々とした風が強く吹き付けてくるばかりである。その風の中にすらも、なにか人生の根源を象徴する土の匂いが混じっているようにのぞみには思えた。
自分の意思で歩いているのか、それともなにかに歩かされているのかすら本人には知ることができない。ただ、偶然の寄せ集めで自分が生じている限りのことで、寒風の吹き抜ける中で、ただ素肌にこびりつくような苦痛の他には、何物も持たざる空虚な自分のありようを、のぞみは今、発見しているのである。
宝物館へと足を進めたのぞみははじめから無我であった。それを自分の意思と信じ込んでいたのである。分厚いガラス扉を開くと、塗装の剥落した古めかしい不動明王像がふたりを出迎えた。不動明王の後背の燃え盛る焔、脂が浮き上がるような肉体、その黒々としたインドの魔神のような外見は、仏像の輪郭を飛び出す魂となって、ふたりを圧倒した。そして憤怒の表情の奥から溢れて出している慈悲心に、のぞみはすぐに気がついたのであった。
(この不動明王は無造作に陳列されているけれど、類がないレベルの名作だ……)
とのぞみは思いながら、その名作という言葉が陳腐に思えるほど、不動明王の存在感は生々しく、煙たいオーラとなって感じれていた。楓があまり気にかけていない様子でさっさと宝物館の奥へと足を踏み入れたので、慌てて彼女の背中を追った。
ふたりは宝物館の一室へと入っていった。曲がり屋のようにL字に屈曲した展示室のショーケースにはさまざまな宝物が納められている。宝物の中にはいくつもの経典がライトアップされている。経典のうちでもっとものぞみの目を惹いたのは、金字で書き表された法華経であった。
日本仏教ではいかなる経典よりも法華経が重んじられている。般若心経がその教えの根本なら、法華経は至高の教えということにもなろう。しかしのぞみはあまり法華経の教えを深く読み解こうと思ったことがなかった。法華経の教えを知るには、天台大師や日蓮聖人の事績を学ばなければならない。ところが、のぞみはどちらかというと禅と浄土教に傾倒しているのである。
(法華経か……。わたしはお浄土だな。来迎図がやっぱりいい……)
そういえば、円悠がこの宝物館に来迎図があると語っていた。
(来迎図も見てみよう……)
それならば、この宝物館にも、死の観念が秘められているということだろう。人生とは極端な言い方をすれば、生と死しかない。それも人が死というのは観念の死なのである。だから観念は生の中にあるものである。生老病死というのは一般に、死を苦しみと捉えているが、本来の意味においては、死に苦しみがあるのではなく、生の中に苦しみがあるのだとされる。死は観念があるばかりで、唯物的な死はただひたすらの虚無である。だから人生というのはただひたすらの生である。ただ死の観念ばかりがその生の中を飛びまわるのである。死の観念は、人々に不安を与え続ける。妄念というのはまさにこのことである。さまざまな不安の根源はただ死ぬことである。しかし死がないところには生もないのである。生の中に死があって、死の中に生があるのである。不安のないところには安心もないのである。人の行動の根源には必ず死の不安があって、慈悲心もここから生ずる。このゆえに人間はただ死なないために生きている存在なのである。
のぞみが死の観念を、精神力動ととらえたのはまさにこのことであった。
のぞみは死の中に生を見たのである。だから、のぞみは来迎図を信仰している。そして阿弥陀如来に帰依している。
(わたしはふたつの死を見たんだ。実存の死と、幻想の死を……。そしてその両方の相違が、わたしの生きる世界を決定づけようとしている。わたしの生の中に死があって、死の中に生があるように……。わたしはその相互の関わりの中に真実の生を見つけようとしている……)
そう思った途端、来迎図を見ることにのぞみは限りない緊張感を抱いた。




