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100 本堂の冷たい風

 山門の先の石段を楽しげに登るふたりの少女。楓は早く石段を登ってすぐにでも愛しの彼に会いたかった。今、楓にはそれしかなかった。千年間の歴史の持続に支えられた白緑山の朽ちかけた山門も、苔むした千手観音の石仏も、杉林の冷たい霊験の息吹きも、楓にはもはやどうでもいいことだった。

 もしも恋愛が人生のすべてであるなら、どんなに楽しいことだろう、楓の目の前に死霊の気配はない。もう彼女は、生死(しょうじ)の世界を超えてしまった。あるいはこれが彼女の涅槃(ねはん)なのかもしれなかった。


(わたしは恋愛至上主義者だ……)


 その言葉を楓は心の中で繰り返していた。


 心の底から湧き起こる感情が、直観が、なによりも彼女を支えていた。肺へと吸い込む空気すら、今では恋の香りがした。恋愛の反対に据えられた孤独の幻影がどこか薄ぼんやりと彼女の瞼の中で揺れていた。生きるということが美しい理想によって彩られてゆき、ふたりだけの世界がどんな世界よりも尊いことを確信させた。楓の胸中は紛れもなく生命力と呼ばれるもので支配され、全身は弾かれたようで、ここがダンスホールなら今にも床を踏み鳴らしてダンスを始めそうな勢いであった。


 楓は、のぞみを置いて、ひとりでさっさと石段を登って行った。そして時々、楓はのぞみの方を振り返るのであった。

「早く行こうよ!」

 と手を振る楓。そのずいぶん下の方をのぞみが物思いに耽っている様子で登ってくるのであった。


 のぞみは楓の様子を微笑ましく見つめているが、円悠のことを考えると他人事も言えない。のぞみもまた恋愛の渦中にあった。しかしのぞみは仏教の思惟を通して恋愛感情までも説明づけようとしていた。そのために一時の感情に侵されることなく、ただ自分の人生観はどのようであるべきか、考えていたのである。


 ふたりの対照的な心が、白緑山の冷たい風に吹かれていた。一体この風はどこから吹いてくるのか。ふたりは白緑山寺の石段を登りきり、本堂のある眺めのよい広場に出た。あの殺人事件が起こったという観音堂も見えていた。ふたりは神仏を求めるわけではなく、愛しの男性を求める心で本堂に入っていった。


 外気の冷たさに比べて、本堂の内部は湿っぽく暖かった。そして蝋燭の灯が揺れる中、あの平安時代の阿弥陀如来坐像が厳かに鎮座しているのだった。そこには他に人もいなかった。

 ふたりが拍子抜けしたことは否めなかった。今、ふたりにとっては神仏よりも愛しの男性の方が尊かったのである。ふたりは阿弥陀如来坐像を前にして、きょろきょろとあたりを見回していた。入り口から外の眩い明かりが入ってきていた。そこから外の様子が見えていた。わたしの大切なあの人は今どこにいるのだろう、いつまた会えるのだろう、会ったらなんて言おう、それとも彼からわたしに声をかけるだろうか、それはどんな言葉だろう、喜んでくれるかな、とふたりの頭の中は幸せで一杯だった。


 それでもどこからか冷たい風が吹きつけてきて、ふたりは揃って振り返った。そこには何も無い。静けさの中で名前の知らない神仏の彫像が横並びになっているだけだった。それはすべて塗装が剥げて、土の色をしていた。

「ここじゃないのかな……」

 と楓はつまらなそうに言った。そしてすぐにのぞみの方を見て、

「宝物館に行ってみようか……」

 と提案した。のぞみは静かに頷いた。

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