最後の一冊
三号館から文化会館へと続く並木通りは薄い黄色に彩られている。西の空に目をやれば、山の向こう側へと沈みかけている太陽が最後の淡い赤みを地上へ投げ掛けていた。
左手にある図書館前のベンチでは、あてもなくぶらぶらしている学生達がスマホをいじりながら、誰かを待っている。
その誰かは友達だろうか。それとも恋人だろうか。
そんな疑問が頭をかすめたが、すぐに自分には関係のないことだと思って、環は正門の方へと歩き出す。
少し前の方で、数人の集団が楽しそうに笑い合いながら、この後の予定をどうするか話している。でも、聞こえてくるのは居酒屋かカラオケばかりで、こういう時の発想は皆、同じなんだなと妙な関心を覚える。
環はサークルに属していなかった。内向的な性格もあって楽しい場の雰囲気に馴染めないのだ。
勿論、環自身もその場を楽しみたいという感覚は持っている。けれども、輪の中に入って盛り上がるというよりは、その様子を少し離れたところから見ている方が肌に合っていると今では自覚している。
いつからだろうか。輪に入れなくなっていったのは。
そんなことをぼんやりと考えながらも、環は家路につく。帰りに今日の晩御飯の用意を買わないといけないことを思い出した時、少し先にある自動販売機の前に立っていた人影が動きを見せた。
「よう、環」
「……こんばんは。祐太」
環はそっけなく挨拶を交わすと、そのまま祐太の前を急いで通り過ぎる。祐太は申し訳なさそうに頭をかくと、のんびりと彼女の後を追いかけた。
急ぎ足とはいえ、歩幅の差は大きい。また、運の悪いことに横断歩道の信号は赤色のままだった。早く変われと思う環だったが、祐太が彼女に追い着いた時も信号は青色にならなかった。
それでも祐太は彼女の後ろに立ったまま、声をかける。
「……やっぱり怒ってる?」
「……ううん」
一応は返事するが、環は頑なに祐太の方を見ようとしなかった。
「本当にごめん。シフトが変わってたこと、伝えるのを忘れてた」
「そこは何か言い訳してよ。正直に言われても悲しくなる」
向かいの道路を歩いて行く中年の男性が、不思議そうにこちらを見ている。環は顔が熱くなるのを感じてそっぽを向く。
その視線の先に祐太がいて、環は心底驚いた。いつの間に自分の隣に来てたんだろう。
「いや、そこまで言うなら連絡先を交換しろよな」
「自分が嫌がってたんでしょう。今更交換してあげないよ」
そんな他愛もないやり取りをしながら、環は自然と心が軽くなる。
信号は青色に変わったが、二人はまだその場から動かなかった。
二
環と祐太は幹線道路沿いを歩いている。
環はこの道が好きだった。一度、休日に自転車を走らせて、真っ直ぐと続く道路の先を見に行こうとしたことがある。マンションとは呼べない程の大きさの建物が並び、それらの間を埋めるようにスーパーやドラッグストアなどが点在している。
どこまで進んでも代わり映えのしない景色だと言えたら良かったが、運動不足の環はニ十分も経たないうちに足に疲れを覚えて、近くにあったカフェへと逃げ込んだ。
そのカフェはチェーン店でなく、一番安いコーヒーですら環の目を白黒させる程だったのも、今となっては良い思い出だった。
クリスマスに友達を招いてパーティーをした時、ピザの宅配に一時間以上かかると言われて、リア充達に対するやり場のない怒りと共に自転車を飛ばして受け取りに行ったのも懐かしい。
あの頃は幸せだった。
ふと湧き上がる奇妙な感覚に環は戸惑いを覚える。だが、それもすぐにかき消えてしまう。二人の目的地である大きな郊外型書店が目に飛び込んできたからだ。
「着いたな」
「うん」
環は嬉しそうに返事すると、自動ドアをくぐろうとする。だが、ドアは反応しなかった。
「あちゃー。また故障かよ。手動で開け閉めするのって面倒なんだよな」
後から来た祐太が、環の左側から自動ドアに手を当てて、引き戸のように開けようとする。その瞬間、急に自動ドアが反応した。
「うぉっ!」
慌てて祐太は手を引っ込める。そして気まずそうに頬をかくと環の方を見た。
「ま、どっちにしろ故障だな」
「店長さんに伝えてあげたら?」
「うーん。多分知ってると思うんだけどな」
困った表情を浮かべる祐太だが、環は既に彼の元を離れて店内へ飛び込んでいる。
環は昔から本が大好きだった。
小さい頃から本に囲まれていたせいか、同世代の友達がマンガを読み漁っている時には家にある探偵小説やエッセイ集などを片っ端から手に取っていた。
ある程度知識が深まってからは、時代小説やシリーズものにも手を出し、大学生になる頃には本の虫と言っても良いくらいの読書量があった。
そんな彼女だから、下宿先の近くに大型書店があるだけでテンションが上がっていた。
大学の図書館も好きだったが、適度な喧騒がある書店の方が居心地も良く、暇を見つけてはこの書店に顔を出すのが環の習慣となっていた。
そしてこの書店でアルバイトをしているのが祐太だった。
三
環は書棚の間をゆっくりと練り歩く。整然と陳列している本を眺めながら、自然と立ち込めている紙とインクの香りを楽しむ。
そのひと時の中では、環は全てを忘れて過ごすことができた。
「ここにいたのか」
振り向くと祐太が立っている。エプロンを身に着けただけなのに、その顔つきは凛々しく見えるのだから不思議だ。
「今日は閉店まで?」
「まあな。あんまりうろちょろすんなよ」
そう言うと祐太はスタスタと去っていく。あまりの素っ気なさに環は顔をしかめそうになるが、通路の奥にいる女性客がジッとこちらを見ているのに気付いて、慌てて俯いた。
図書館ほどの厳格さはなくても、私語は慎むべきである。女性客の視線にたしなめられた気がして、環はそそくさとその通路から立ち去る。
それは自然と祐太の後ろ姿を追いかける形になり、環は何とはなしに彼の仕事ぶりを観察することにした。
と言っても、祐太がしていることは本の整理だ。客が無造作に戻した本を、本来の決まりに従って並び替えていく。楽な仕事に見えてしまうのは失礼だろうか。そんなことを考えていると祐太がバックヤードに姿を消す。
興味の対象がいなくなった環は、また自分のリズムに戻る。気になった本を手に取るわけでもなく、綺麗に並べられた本の背表紙を目で追いかけていく。誰かが手に取った拍子に巻き上がる突然の香りをじっくりと楽しむ。
「全く優雅なことで」
声のした方を見ると、祐太がフロアブラシとちりとりを手に持っていた。
「あれ、もうそんな時間?」
「こういうのはこまめにやらないとダメなんだよ」
祐太が床のほこりを丁寧に掃き取っていくのを見ていたかったが、祐太は清掃中の様子を見られるのを嫌がる。
空気を読んでその場を立ち去りながら、環は祐太とここで初めて出会った時のことを思い返す。
その時も祐太は清掃中だった。額にじんわりと汗を浮かべながら丁寧に、じっくりと目の前の仕事に打ち込むその姿は好ましかったが、何故か自分が立ち読みしている時に限って出くわすことが多く、最初の頃はわざとそうされているのではないかと考えたこともあった。
友達に話したら、好きな子をいじめる心理と一緒だと笑われた。その言葉に驚いた環だったが、そういう目線で祐太が自分のことを見ていないのは理解していたし、自分自身も祐太を意識していなかった。
実際、環の誤解で、祐太は純粋に手順通りに清掃しているだけで、嫌がらせなどは一切していなかった。彼の行くところに偶然、環が先にいただけの話である。
その時は互いの名前も知らない頃で、自分達が同じ学年、同じ学部で、学科だけ違うことを知るのはもう少し先のことだった。
出会った頃を振り返りながら環はふと思う。その時は嫌がらなかったのに、いつから清掃中の様子を見られたくないようになったんだろう。
四
時計の針は八時三十分を指している。
閉店時間まで残り三十分だった。
環は慌てて、買いたいと思っていた本を探し始める。環が好きな作家のシリーズ最新作が発売されているはずだった。しかし、不思議なことに書棚を探してもその本は見つからなかった。
「おかしいな……。新刊のはずなのに」
つぶやきながら環はその本を探す。天井から吊り下げられたジャンル別の掲示も確認したし、今週のおすすめとして紹介される新刊コーナーにも目を通したが、目当ての本は見つからなかった。
「やっぱりシフトのことなんて気にするんじゃなかったな……」
環は後悔する。そのジャンルでは有名だが、全国的な知名度があるとはいえない作家の本は、大型チェーン店と違って中小規模の書店にはあまり置かれていない。置かれていても在庫はほとんどなかった。
だからこそ、そういった本は最初から取り寄せの形で買う人が多い。環もその一人で、その手続きをいつも祐太に頼んでいた。
別に意味があったわけではない。けれども、他の店員にはどうしてか頼むつもりにならなかった。
きっと祐太の仕事ぶりが信頼できるからだろう。だから環は、せっかく店に来ても祐太がいなかったら取り寄せの依頼をしようとしなかった。
一度、連絡先を交換しようと言ったことがある。それはデートの誘いなどではなく、直通で予約できたら楽だなという軽い気持ちからだった。
だが、祐太はそれを断って、代わりに書店の代表番号を伝えた。当然である。プライベートな連絡先に仕事の電話が来たら誰だって嫌である。
それもそうだと思った環は、いつも通り直接来店して予約すれば良いかと考えた。
だが、今回はその時の判断が裏目に出ている。最初から取り寄せするくらいなので、数少ない在庫はとうに売り切れてしまったのだろう。
環はため息をつくと、祐太を探した。早く最新刊を読みたかったが、ないものは仕方ない。今からでも取り寄せの手続きを行って、なるべく早く手元に届くことを願おう。
しばらくして環は祐太を見つける。祐太はちょうどバックヤードから出て来たところだった。
その手に握られている一冊の本を目にした時、環は一瞬動けなくなった。
五
「それって……」
「これだろ?」
祐太が掲げた本は、まさしく環が探していた一冊だった。
「どうして……」
「この作家が好きって聞いてたし、いつも取り寄せの依頼を受けてたからな」
環はその本から目を離せない。その様子を見た祐太は静かにため息をついた。
「悪ぃな。随分と待たせちまった」
「……」
「ちゃんと渡したかったんだけどな」
祐太の言葉に環はうつむく。彼女の両頬を静かに暖かいものがつたっていく。
いつの間にか店内には『蛍の光』が流れ始めている。そのメロディーは聞き慣れているはずなのに、どうしてか今日だけは心に重くのしかかる。
やがて顔を上げた彼女の表情は晴れやかだった。それは悲しいくらいに眩しくて。
「ううん。いいの」
「……」
「祐太。ありがとうね」
「……おう」
祐太と環はゆっくりと店内を歩いて行く。既に他の客の姿は見当たらない。
物悲しくも、柔らかにも聞こえるメロディーに背中を押されながら、二人は自動ドアの方へと向かう。
祐太が一歩前に出ると、センサーが反応して自動ドアが開く。冷たい風が吹きこんできて、二人をそっと包み込む。
「寒いね」
「ああ」
「風邪ひかないようにね」
「うん」
気の利いた言葉が見つからない自分に歯がゆさを覚えながらも。
環は自動ドアの向こう側へと一歩踏み出す。そして振り返ると祐太を見つめ、微笑んだ。
「ありがとうございました」
祐太は一礼する。
自動ドアのそばに置かれた本は、風によって優しくページをめくられていく。
その様子を祐太はいつまでも、静かに見守っていた。