紅の記憶
天竜川を上流へ向かう。空には灼熱の太陽があらわれてる筈だが、木々に遮られている。
そのせいか、航太の額からは、いつものような滝のような汗は流れない。
高校に入学して、最初の夏休みだ。
ヒートアイランド化した都会のマンションの自室では、部活以外では家から出ることもなく、ネットに耽っていた。
何の取り柄もなく、女子にも縁遠く、かといって、クラスで害のある存在でもなく、平々凡々な人間であることを、いやという程、承知している航太だ。
ネットの掲示板で、不思議な駅の存在を知った。来た者を、現実世界に帰さない駅のようだ。
航太の幼い頃の記憶が蘇った。
知っている。
駅の様子が掲示板に書かれていた。間違いなく、航太の記憶と一致している。
投稿者の投稿は、駅を降りて、森を散策した辺りで途絶えている。
遊びでの投稿ではない。
航太はいてもたってもいられなくなった。
助けなければ、、、。
航太がその駅に出くわしたのは、4歳の時だった。
家族で天竜川沿いで、夏のバーベキューを楽しんでいた時だ。
薄桃色の蝶々を見かけた。
今にも裂けてしまいそうな羽根を広げた蝶々は、軽やかに飛び回り、航太の好奇心を誘った。
一人で蝶々を追いかけるうちに、深い森へと入ってしまった。
気付くと、蝶々はいなくなっていた。
深閑とした、樹木だけの空間だった。どこをどう歩けば、家族の元へ戻れるのか、見当がつかなかった。
涙があふれ、泣き叫ぶ航太の耳に、鉄道を思い出させる汽車の音が聞こえた。
目に涙をためながら、その方角へ行ってみると、そこには、駅と汽車を背景に、先程の薄桃色の蝶々が飛んでいた。
蝶々は航太の周りを一周すると、白い雲のようなものを羽根から出した。
すると、航太の母親よりも若そうな、一人の女性があらわれた。
「ここで何をしている?」
聞いたこともないような柔らかい息遣いで、紅く薄い唇から、淡く漏れるかのように問われた。
美しいという単語さえ、まだ知らなかった。
だが、航太の胸には、知らぬ場所に迷いこんだ不安と共に、ときめきが生じているのも事実だった。
言葉にならない声で、やっと返事をした。
「僕、ママのところに帰りたい。おうちに帰りたい」
女性は、淡く白い薄絹のような、丈の長い衣類を、草むらに擦らせながら、音も立てずに航太の元へ近寄った。
紅く薄い唇がまた、ゆらゆらと動く。
「、、、食べるには、まだ、早い、、、」
「えっ!!」
僕、食べられちゃうの!?と、言葉が続かなかった。
凍りつく体を、動かそうにも動かせない。
「食べるには、まだ早い。お帰り、、、」
白い雲のような、真綿のようなものがサッとあらわれ、気付いた時には、家族の元にいた。
蝶々を追いかける時から、なんら変わってない景色だった。
「航太!肉が焼けてるぞ!」
バーベキューを仕切ってる父親が、汗を拭いながら、大声を発している。
たしかに、今しがた、淡い響きの声を、あの紅く薄い唇から聞いていた。
不意に航太の目の前が暗くなる。
気を失った航太を、両親は、熱中症かと思い、病院へ連れて行った。
病室で目覚めた航太の脳裏には、あの女性が焼き付いて離れない。
食べるには早いと言っていた。
思い出すと、体が震える。
病室の窓からは、煌めく星空が見えた。
軽い熱中症と診断された航太は、その日のうちに、母親の胸の中で眠りにつくことができた。
掲示板で知った航太は、決してヒーローになりたいわけではない。
4歳の夏の日に出会った女性に、再会したいのか?
だが、人を食らう魔物だ。
知りながら、見捨てることはできなかった。
何で立ち向かえば良いのかもわからない。
航太は、自宅の仏壇から、小さな仏像を持ち出し、登山の支度をした。
この部屋に帰ってくることができるのだろうか。
自室をやっくり、眺めた。
紅い薄い唇が、脳裏を掠めた。
意を決して、自宅を出た。
数時間後、ズタボロになった航太の姿が、天竜川のほとりにあった。
手にした仏像は、粉々に砕け散っていた。
紅く薄い唇の記憶も、もう、砕け散った。
2chで有名な「如月駅」への、オマージュの気持ちを大切に、自分なりに、記憶と魔物をテーマに掌編にしてみました。